NO.41
新津保建秀 vol.6『風景を撮ること、人を撮ること』
INTERVIEW
2022/05/16 12:30
新津保建秀さんは、現在数あるメディアや媒体の多くで活躍する、第一線を駆け抜けるカメラマンである。国内外のさまざまな場所で写真撮影を手掛け、その対象はあらゆる著名人・文化人のポートレートから、巨大な展示物としての風景・建築写真などまで広範に渡る。
今回のインタビューでは、新津保さんの近年のプロジェクトを皮切りに、過去の原体験や人々との出逢い、ご自身の中で深めてきたテーマについて聞き、その創作に込められた思想や、写真表現の身体性・時代性・倫理の問題などまで広く深く語ってもらった。
彼はこれまでどんな経験をして、誰と出会い、そしていま何にレンズを向けるのか。
――ファインダーの奥にのぞく情熱の眼光に迫る。
崎谷 風景って結局、そういうことなんじゃないかと思うんですよ。本当は、外部化されえない経験がベースにあるというか、個人の見方に基づいて風景があると。
新津保 ああ、なるほど。修士のときの提出作品のタイトルは『往還の風景』という連作なんです。東京から息子が生まれる前に行った長野の山を再訪して写真を撮ったんだけど、そのとき、風景というのは、そこに行って捉えた一葉のイメージなのではなくて、どこかへ赴き、元の場所に戻ってくるまでの、心のなかにある前後の時間を含んだものであることが腑におちたのです。

《往還の風景》 (2016) ©新津保建秀
ライトジェットプリント 1200×1800
伊藤 新津保さんが撮られているものは、もちろん写真だから刹那的なものですが、時間的な奥行きがありますよね。写真はまさにその一瞬を切り取る芸術だと言われるけども、新津保さんの写真には、前後の時間を含めた、変化を感じさせるところがあるなと思います。
新津保 だといいですねえ。
伊藤 大学院の修了制作は、どのような形式でアウトプットされたんですか?
新津保 最終提出物は制作した作品と論文です。僕が提出した修了作品はドローイングと写真による連作です。在籍中の作品の講評は、先生方が一同に会するものがあって、これがかなり緊張感ありました。
伊藤 きつそうですね。
新津保 かなり。

博士修了展の展示(一部) ©新津保建秀

《Untitled》(2019) ©新津保建秀
ピグメントプリント 425×2376

《TimeScape》(2018) ©新津保建秀
映像(1min)から抜粋

《往還の風景》(2019) ©新津保建秀
ライトジェットプリント 1456×920
伊藤 メディアの違いは、すんなり問題なくいったんですか。写真と絵画ではだいぶ違うようにも思えますが。
新津保 自身の身体と扱う素材を介して、世界と関わっていくというところでは、絵も写真も通底する部分があるんですよ。それこそ、最近、20代のころに知り合った友人と3日連続で語りあう機会がありました。彫刻家の曽根裕さん(※)という人で、最初、藝大で建築を学んでから彫刻をはじめ、長年にわたって海外で活動されている方です。先日、彼が住んでいるベルギーから一時帰国しているとき空港から連絡をくれて久しぶりに会ったのです。そのとき、彼が彫刻の制作において、石という素材とイメージを扱う際の感覚について貴重な話をしてくれました。彼の話はとても精妙な感覚についての内容でしたが、このとき彼が彫刻という行為において石を扱いながら探っている抽象度が、なんとなくわかった気がしたのです。まったく異なる互いの歩みを経てきましたが、長い時間を経て旧友が達した感覚についての話を聞けたことはとても嬉しかったです。
※ 曽根裕:彫刻家
伊藤 異なる表現手法、異なる素材を扱っていても、ずっと続けた先には、なにかしら通ずるところがあると。まさに大学院やその旧友の方との対談で、それを感じられたわけですね。
新津保 曽根さんが話してくれたのは、光を石で抽象化した作品を制作したときの話だったのですが、特定のメディウムに長く取り組む課程で意識のなかでうまれる感覚は、ことばにするのが難しいのですが、音楽や建築にもあるように思いました。それこそ僕からも聞きたいけど(笑)、伊藤さんの博論はどんなテーマだったのですか?
伊藤 僕ですか(笑)。
新津保 そう。
伊藤 その、話してもいいんですけど時間食っちゃうんで…、僕の話はまた今度お酒でも飲みながら話しても良いですかね(笑)?
新津保 そっかそっか、OK(笑)。とても気になっていたんですよ。
伊藤 いや、ありがとうございます(笑)。では、すごく簡潔に言うと、建築の地域性という、ふわっとした概念を再考しなきゃいかんという論文でした。
新津保 地域性という語は曖昧に語られがちですよね。
伊藤 地域的な街並みや伝統民家の在り方について、これまでの研究では多くの場合、ある土地の範囲を指して"地域"だと言って、その地域の内側の属性で地域性を定義しようとしてきたけど、僕は外側との関係性も含めて定義した方がいいと。なので、建築材料の流通とか産業文化の結びつきを対象にいれて、分析と考察をしたという。
新津保 面白いですね。
崎谷 たしか、“相対的地域性”と言ってたよね。
伊藤 そうです。そういう言葉を作って。地域性って不変のものだと思われてるけど、歴史的に変わってきてるし、同時代の横の繋がりで変わってきてるので、時間的にも空間的にも相対的なんだと言ったんですよ。場所性が不変で固有のものであることと、地域性というものを概念的に峻別したわけですね。
新津保 とても興味深いですね。ニコラ・ブリオー(※)というキュレーターがいて、その人が『関係性の美学』って本を98年に出したのですが、彼が2018年の1月に藝大で講義したとき、ニュージーランドの議会で、少数民族が崇拝している川に法律上の人格を付与する法案を可決したことついて言及したんですよ。
※ ニコラ・ブリオー:美術理論家, キュレーター
伊藤 ニコラ・ブリオー『関係性の美学』。我々編集部でも拝読してみますね。そのニュージーランドの川の件も、知りませんでした。
新津保 「ニュージーランド 法的人格 川」とかで検索すれば出ると思います。川の名前は忘れてしまったけど。
崎谷 すごい話ですね。まさに、場所とそれを取り巻く人の関係性の話ですよね。でも、その思想に近いものは、もともと、ここ日本にはあったものではないのかなとも思うんですよね。魂が宿るというような話は、”人権”という言葉に置き変わっていますけど。
新津保 だから、それはどの部族、民族かとかで違うんだと思うけどね。そういうものが近代的な法制度の中でちゃんと組み込まれてっていう。
崎谷 でも、逆に、近代的な法制度の中に組み込まないといけないぐらいになってるとも言えますね。
伊藤 ニュージーランドはまた母体にいろんな民族がありますよね。しかし、これと同じことを、日本で、たとえばアイヌの川にできたかと言われたら難しそうですね。
崎谷 それは、できなそうだね。
新津保 そうですね。
崎谷 今まさに関係性という話が出ましたが、新津保さんをつくり上げたのは、やはり、さっきの武蔵野の地元なんですかね。
新津保 武蔵野に限らず、過ごした土地のなかで感じたものの影響は小さくはないように思います。僕が2012年に出した本で『\風景』というものがあって、それは風景について考えたことをテーマにしたんですよ。10年くらいかかりました。
伊藤 そのときは、どういう風に、その10年分のテーマをまとめあげたんですか?
新津保 2002年に杉並に住んでいたとき、土地にただよう気配や時間、人々の営みの集積のようなものをどうやったら抽象化できるかを考えていたのですが、それをいろいろな習作を経て形にしました。その手がかりとして、インターネットを基盤とした情報環境のなかにある膨大な情報の流動を新しい自然と見立てて、それを風景として捉えられないか考えてたんですね。Max/MSPというプログラムを用いて、インターネットから取得した地理空間情報を抽象化してサウンドスケープを立ち上げてみたり、私が写真を撮影した場所で、見ず知らずの他人によるSNS上でのつぶやきに含まれる位置情報を地図のうえに可視化してみたり。そういうことを、サウンドアーティストのevalaさん(※)、データサイエンティストの岡瑞起さん(※)をはじめとして、東京大学知の構造化センターのPingpongプロジェクトの皆さんに協力していただいて探っていました。
※ evala: 音楽家, サウンドアーティスト
※ 岡瑞起:筑波大学准教授
伊藤 かなり、いろいろな方と協働してつくられたんですね。

《不審者情報マップ》(2010) ©新津保建秀

《Untitled》 ©新津保建秀
岡瑞起さん(東京大学 知の構造化センターPingPongProject)との作品


《\風景》(2012)のための習作 ©新津保建秀
新津保 そうしたなかで、作家の乙一さん(※)の小説に写真を取り下ろす依頼を角川書店からいただいたのですが、そのとき東京のはずれにある、某市の空き地で撮影をしました。その土地は折に触れて撮りにいっており、UR都市機構との仕事で知ったところなんです。写真集『\風景』は、この某市の写真から始まり、リサーチと習作過程で得た数年分の画像と、スクリーンショットによって撮影したデスクトップ画像がまとめられています。
※ 乙一:小説家, 映画監督
伊藤 そうした話を聞くと、場所というものが、新津保さんの中でコンセプトとして非常に強いんですね。それこそ、新津保さんはよく女優さんの写真集やポートレートなども撮ってらっしゃいますけど、そうした場合でも、どこに行って、どこで撮ったかが大事な写真のような気がします。土地が、ただのロケ地として現れるのではなく、誰が、どこに行ったのか、ということが写真の中で物語られている。
新津保 風景を撮るときも人物を撮るときも、同じものの見方を保って撮っていくことです。風景を人物のように撮って、逆に、人物を風景のように撮るというか。その向こうにあるものを眼差していきながら撮る感じです。
伊藤 おお。



《琵琶湖》(2017) ©新津保建秀
『SWITCH Vol.35 No.8 特集:ヒロインに恋して』 (スイッチパブリッシング 2017)より
新津保 写真の仕事を始めようと思った当時、何人かの編集者に会ったのですが、当時、ナン・ゴールディン(※)とかラリー・クラーク(※)が人気あったこともあって、写真のなかに描かれる私性――多くの場合、どれだけ被写体とのあいだに深い関係性を構築してそれを写真の中に暗示できるか、それがリアリティだという傾向が、写真を扱う編集者やデザイナーのあいだに大きかったように思います。彼らの中でも、おもに男性編集者のあいだで、篠山さん(※)や荒木さん(※)の存在もとても大きかったようにみえました。それが顕著だったのが、被写体が女性のときです。ただ、そこで語られていたことが、とても狭い意味のなかで捉えられているのではないかという違和感がありました。それで、自分の中では別の解釈があったので始めたのが、いま言ったような被写体との向き合い方です。
※ ナン・ゴールディン:アメリカ, 写真家
※ ラリー・クラーク:アメリカ, 写真家, 映画監督
※ 荒木経惟:写真家
※ 篠山紀信:写真家
崎谷 かなり極意のような話ですね。
伊藤 本当ですね。
新津保 でも、今より若い頃の、写真の仕事を始めて、技術的に自信がついたときの頃の写真とかをあらためて見直すと、シャッターを押す瞬間に、いろいろなものを同時にみていたなと思います。そのときの集中の仕方と、今の集中の仕方が少し変わってきている気がしています。
伊藤 そうなんですか。力の使いどころが変化していくような感じですかね。でも、武道の人から聞いたことがある話で、肉体は衰えていっても、判断力や身体的な経験値は残るから、彼らはそれを人に伝えたいんだとも言いますね。
新津保 『土景』では、武道家のインタビューはあったりしたんですか。
伊藤 いや、まだです。
新津保 武道家やバレエの人とか。身体表現を極めた人というのは拝見したいです。能の人とか。
崎谷 能の方は、もう行く予定があるんですよ。音楽方面もありますし、身体表現の方面で活躍されている方々にも行ってみたいですね。それについては、今後楽しみにしていてくださいね。
<次編:vol.7『 生きること、生(なま)であること 』>