新津保建秀さんは、現在数あるメディアや媒体の多くで活躍する、第一線を駆け抜けるカメラマンである。国内外のさまざまな場所で写真撮影を手掛け、その対象はあらゆる著名人・文化人のポートレートから、巨大な展示物としての風景・建築写真などまで広範に渡る。
今回のインタビューでは、新津保さんの近年のプロジェクトを皮切りに、過去の原体験や人々との出逢い、ご自身の中で深めてきたテーマについて聞き、その創作に込められた思想や、写真表現の身体性・時代性・倫理の問題などまで広く深く語ってもらった。
彼はこれまでどんな経験をして、誰と出会い、そしていま何にレンズを向けるのか。
――ファインダーの奥にのぞく情熱の眼光に迫る。
伊藤 今までのものを見直すという話がありましたが、若い頃にやられていた作品については、どうですか。残っていたり、それこそ売れたりとかはなかったですか。
新津保 売れたりとかはなかったですね。コンテストで選ばれたり、小説の単行本の表紙に使われたりというのはあったけど。ただ、『deja-vu(デジャ=ヴュ)』っていう雑誌があって、飯沢耕太郎さん(※)が編集していた雑誌なんですけど、それにそのころの作品が載ったことがあります。
※ 飯沢耕太郎:写真評論家, 研究者
伊藤 今でも発刊されてる雑誌ですか。
新津保 1995年に刊行された20号を最後に、現在は刊行されていません。毎回、異なるテーマで特集が組まれていて、テーマに沿った論考と図版が掲載されていました。僕が作っていた作品はこれに載っているんです。
伊藤 『第10号 少女コレクション』。

《Winter Vacation》(1991) ©新津保建秀
新津保 そのとき作っていたボックス・コラージュの作品が少女の写真を使ったものだったのです。少女と言っても、さっきのコーネルのあの作品に触発された、少年のような佇まいです。最初はこのコラージュ作品を記録するつもりで撮影していたのですが、途中からは、記録写真そのものが作品になっていきました。写真のフレームのなかに、コラージュしたものをさらに引用していくような作業になっています。あるとき、これをこの雑誌の編集部に見せにいったら掲載してくれたのです。たまにそういう励みになることはあったくらいです。
伊藤 そこから写真を仕事にしようというところまでは…
新津保 1994年にグルノーブル市立美術学校にいたフランス人の友人の個展がパリであって、それを訪ねたときに色々な出会いがありました。たとえば、当時創刊されたばかりの『Purple Prose』という現地で注目を集めていた雑誌の編集長や、『Paris VOGUE』のフォトエディターと知り合うことができて、それまで制作していた作品に興味をもって、とても褒めてくれたんですよ。

《AEPP》(1994) ©新津保建秀
新津保 それまで東京のアートディレクターに見せても芳しくなかったのですが、なにか潮目が変わったような実感があって、写真を仕事にしてみようと思ったんです。
伊藤 生きるうえで、写真が一番、自分の仕事にしていけると?
新津保 稼げるというよりは、一人で探っていたことを、複製メディアを介して発表することで、社会との接点をもてることへの期待がありました。機材の知識やテクニックは、撮影スタジオなどにいた人には負けちゃうかもしれないけど、数年間、自分で考えたことは応用できるなという確信はあった。
伊藤 それまでも、いわゆる一眼カメラみたいなもので撮っていたんですか?
新津保 そのときはニコンF3というカメラを使って撮っていました。それと富士フィルムのシングル8という、8ミリ映像用のカメラを使っていました。
伊藤 始めた当初、写真の売る先というのは? 何を撮って、どういう分野から入ったのかなと。
新津保 はじめはファッションや音楽を扱う雑誌です。海外と東京を行き来しながら作品を撮りつつ、『流行通信』『BRUTUS』『花椿』といった雑誌の仕事を受けて、1997年にマネジメント会社と契約して東京を拠点に写真家として活動をはじめました。これと並行して、東京にいながら『Paris VOGUE』や『Purple Fashion』(※ 前述の『Purple Prose』から誌名を変更。)など海外の雑誌の依頼も受けていました。
伊藤 それらの仕事は、「今度こういう撮影あるから、カメラマンお願いします」という風に依頼をもらって?
新津保 そうです。
伊藤 すごいですね。そこだって、なかなか行こうと思って、行けるところじゃない気がしますよ。
新津保 一生懸命、制作に取り組んでいたので、技術に先立つ部分を掴んでいたことが幸いしていたように思います。とはいえ技術は大切なので、最初は一番シンプルで手に馴染んだ機材での自然光撮影の仕事に専念していました。そこから試行錯誤しながら、毎回それぞれの仕事のなかで機材の難度をアップデートさせて覚えていきました。最終的にスタジオで用いる照明機材と大型カメラの扱い方を習得しましたが、ここまでに数年を要しました。
伊藤 数年間はさまざまな専門技術の習得に費やしたわけですね。そうして活動を広げていって、後に奥様と会われたときあたりから興味の言語化というのが、はっきりとしてきたと。
新津保 はい。
伊藤 それ以来、ずっと写真家として活動を続けられているかと思いますが、最近気になっているテーマとかは、なにかありますか?
新津保 最近、気になってるのはね。そうだなあ。たくさんあるんだけど…。
伊藤 そうですよね。パッとは答えづらいですよね。では、その前に、それに関連することで一つ気になっていたことがあるので質問させて下さい。たしか、僕が新津保さんに会ったのは多分2013年だから、8、9年前だと思うんですが…
新津保 そんな前にですか。結構経ってますね。
伊藤 僕もちょうど修士に入ったばかりぐらいの頃でした。そのとき、ちょうど新津保さんが藝大の大学院に進学されて、「修士を取ろうと思ってるんだ。」と話されていて。
新津保 そうでしたね。
伊藤 「お互い学生だね」「伊藤君はどういうことをやりたいの?」といって話しかけてくださったんです。そのときに、「僕はかくかくしかじかだ」と答えて、こちらからも「新津保さんはもうすでに実績もあるのに、これから大学院に行かれるのはどうしてですか?」と聞きました。
新津保 何といってましたか?
伊藤 「見えないものを撮りたいんだ」というようなことを仰ってました。「写真は見えるものしか撮れないわけだけど、でもそこの見えない気配みたいなものをどうやって撮ったらいいのか分かりたい。」と。そんな言い方じゃなかったかもしれませんが、そういうことを知りたい、突き詰めたいと。その興味は、どのような機会を経て浮上してきたのでしょうか?
新津保 2011年から2012年にかけて、ヒルサイドテラスからの依頼で通年の写真講座を受け持ったのですが、この講座のタイトルが『見えないものを撮る』だったんですよ。このときは写真に写らない「気配」「音」「時間」「匂い」「言葉」について、毎回ゲストをお招きして考えていきました。これを全て終えたとき、自分のなかで未消化だったものがあって、それが気になっていたのです。
伊藤 なるほど。結局、藝大では博士号まで取られましたね。そのときの最終的なテーマは?
新津保 その2011年の経験を踏まえて、芸術表現における〈見えないもの〉という問いについてです。
伊藤 それは、いわゆる物質的な対象の話じゃないですよね。
新津保 はい。この問いには私たちを取りまく世界での、五感によって知覚される、見たり触れたりすることが可能なものと、五感に分節化される前の、私たちの心のうちにあるものとの相互作用によって、精神のうちに生起するものへの関心が含まれています。これを、カメラという機器を一度横に置いて、自分の身体と絵の具や木炭などの描画材を介して対象と関わることで、双方の制作プロセスと対比させながら探りたいと考えたんです。ただ、この〈見えないもの〉という問いは、あまりに広い範囲の概念を含んでいます。なので、藝大での研究では、この問いに対して、さまざまな先行作品を参照しつつ、範囲をしぼって考察をおこなっています。
伊藤 カメラで撮影し現像するというプロセスと、身体と素材から絵を描くというプロセスを対比し、内面に生じるものへ焦点を当てたと。それを新津保さんの経験を通じて考察したわけですね。その、テーマとして言葉にもなっている〈見えないもの〉ですが、それを明確に感じる何かしらの機会があったのですか?
新津保 それが腑に落ちる形で実感できたのは、私が生まれて数年を過ごした西荻窪という街の、善福寺公園とそこから流れる善福寺川沿いの道にて、ドローイング制作したときですね。このときの作業を通じて、過去と現在を往還するなかで、作品における形(=フォルム)というものが、どのように立ち上がるのかを実感した気がしています。
伊藤 なるほど。そこには、生まれ育った土地が関係していると?
新津保 そのときは紙を地面の上に置き、私自身の手のひらを用いて、自身の身体と描画材を介して場所に触れ、そこからイメージを探ってゆく作業をおこないました。そうしているあいだに、手のひらから伝わる地面の感触だけではなくて、その土地とつながった記憶の中にある主観的な時間そのもの、あるいは、それらすべてを含んだ場所そのものに触れているかのような感覚になりました。こうしたドローイングの作業をしながら、過去と現在を行き来するなかで、それまでカメラを介して対峙していたときには気がついていなかった身体と意識のなかの微妙な認識の経路が、静かにスッと開いたような感じがしたんですよ。もし、縁もゆかりもない土地で同じ作業をしていたら、このときの経験はなかったかもしれないです。
伊藤 面白いですね。まさに身体を介して、記憶や経験が呼び覚まされて、場所への直感的な、精神的な繋がりが触発されたと。しかも、そのことを、地面に触れる、絵を描くという、カメラの撮影とは異なる身体的行為によって気づいたという点も興味深いです。けっきょく、芸大には修士と博士で何年間ぐらい在籍されたんですか?
新津保 5年です。
伊藤 仕事しながらですよね…5年はすごいです。最短で出ましたね。
新津保 はい。これは家族の理解と協力があったからです。とくに、息子の中学受験は全くコミットできていなくて。小学6年生の夏は一番大変な時期じゃないですか。そのときはリサーチでロンドンに行っていたから。。
伊藤 それは、また何のリサーチだったんでしょう?
新津保 東京藝大とロンドン芸術大学セントラル・セントマーチン校とで、合同でおこなわれた日英の庭園空間に関するリサーチです。このときの成果は、高松市にある栗林公園で開催された「複雑なトポグラフィ-庭園」という展覧会で発表しました。






《London》(2015) ©新津保建秀



《栗林公園》(2015) ©新津保建秀
新津保 ロンドンの中のいろんな名庭園といわれる所だけではなく、デレク・ジャーマン(※)が晩年につくった自宅の庭や、夏目漱石(※)が住んでたアパートの庭などにも足を運びました。
※ デレク・ジャーマン:Derek Jarman, イギリス, 映画監督, 舞台デザイナー, 作家, 園芸家
※ 夏目漱石:小説家, 英文学者, 俳人
伊藤 おお、漱石の時代の庭が残ってるんですね。
新津保 その場に赴いたとき、時間を超えて、心の中に作用してくるものというのがありました。
伊藤 デレク・ジャーマンの庭は、これのことですか?
新津保 そう。ダンジェネスという所で、庭の向こうにみえる原発が借景になっています。
伊藤 やばいですね。






《Dungeness》(2015) ©新津保建秀
新津保 原発のタービン音がいちめんにブーンっと聞こえていました。そこに行って帰ってくる心の経験の総体がこのジャーマンの庭なのだと思った。
伊藤 それは原発の所まで近づいていく、アプローチのことですか?
新津保 いや、むしろ東京からロンドンに行って、ロンドンからそのダンジェネスまで行って、そしてまた戻って、戻ったところで想起したときに、記憶のなかに立ち上がってきたものが、そのジャーマンの庭だったのかなということです。それは、東京から行って帰ってくるという行為そのもの以外に、物の世界と心のなか、計測できる時間と計測できない主観のなかの時間など、真逆の関係にあるものを往還するなかで三つ目の何かが生まれる。これをつくってるんだなと。庭を構成するいろいろな要素に目が行きがちですが、庭の本体とは、その空間が、訪れた人の中に生起させる意識経験なのかなと、そのときに思いました。うまく伝わるとよいのですが。。
崎谷 分かりますよ。たとえば、哲学者の人が「“自分”の存在は何か?」と考えたときに、“自分”という要素だけでは説明し切れなかったと言いますよね。人間は関係性のなかにある。
新津保 物と心、現在と過去といった、相補的な、真逆の何かの応答の中で第三項がきゅっと立ち上がってくる。庭園ではこれを見ているのではないか、と強く感じました。






《Dungeness》(2015) ©新津保建秀
<次編:vol.6『 風景を撮ること、人を撮ること 』>