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INTERVIEW

NO.39

新津保建秀 vol.4『写真のリアリティーと無意識』

INTERVIEW

2022/05/02 00:02

#新津保建秀
#東浩紀
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新津保建秀さんは、現在数あるメディアや媒体の多くで活躍する、第一線を駆け抜けるカメラマンである。国内外のさまざまな場所で写真撮影を手掛け、その対象はあらゆる著名人・文化人のポートレートから、巨大な展示物としての風景・建築写真などまで広範に渡る。
今回のインタビューでは、新津保さんの近年のプロジェクトを皮切りに、過去の原体験や人々との出逢い、ご自身の中で深めてきたテーマについて聞き、その創作に込められた思想や、写真表現の身体性・時代性・倫理の問題などまで広く深く語ってもらった。
彼はこれまでどんな経験をして、誰と出会い、そしていま何にレンズを向けるのか。
――ファインダーの奥にのぞく情熱の眼光に迫る。

伊藤 それこそ新津保さんの中高時代は、どういう風に過ごされていたんですか?


新津保 とにかく映画を、いっぱい見てました。当時は小さな映画館がいっぱい残っていたのです。三鷹や吉祥寺に映画館があって、3本立てというのをよくやっていた。あと、マイナーな実験映画を上映している映画館が高田馬場のビル内の一室にあって、そういう所で映画を見てましたね。


伊藤
 1人で行かれてたんですか?


新津保 1人のときもあるし、友達と一緒のときもあったな。寺山修司に傾倒してる友達がいて、そいつは寺山と一緒で競馬、ギャンブルではなく馬が好きでした。


伊藤
 いいですね。カメラマンになろうと思ったのは、いつ頃なんですか?


新津保 なろうかなと思ったのはね、20代の中頃です。それまで8ミリで映像の作品を作ってたんです。


伊藤
 じゃあ、動画を撮っていた?


新津保 動画っていっても長編ではなく、儚い、断片的な映像でイメージを喚起させたいと思って取り組んでいました。それをバイトしながらずっとやってたから、「これはちょっと先がないぞ」と思って、写真を仕事にしようと一念発起してはじめました。それが25、26歳のときですね。動画の写真をブローアップして、ポートフォリオを作って、漫画家が原稿持ってくみたいな感じで出版社とかに回りました。「良いですね」って人もいれば、「何これ」って人もいるんだけど。ただ、そうやって、そこで出会った人から仕事を繋げていった感じですね。


崎谷
 完全にたたき上げですね。


新津保 そうですよ (笑)。


崎谷
 創作者の在り方として、当時の新津保さんにとってモデルになったような人物というのは、誰かいらっしゃるんですか?


新津保 10代の頃に傾倒していたのが、ジョセフ・コーネル(※)というボックスコラージュをやっていた人と、あとは、バルテュス(※)なのですが、バルテュスって分かりますか? あと、ジョナス・メカス(※)っていう映画作家がいるんですけど。僕が尊敬してる人は、みんな独学で取り組んでいたのです。コーネルも正規の教育を受けてないし、バルテュスもそう――ただ、バルテュスの場合はブルジョワの出なので、他の二人とは多少違うのですが――メカスも我流でやってた人なんだよ。だから、「そういう中でもできる」というのがあって。

※ ジョセフ・コーネル:Joseph Cornell, アメリカ, アッサンブラージュの先駆者の一人とされる

※ バルテュス:Balthus, フランス, 画家, 本名はバルタザール・ミシェル・クロソウスキー・ド・ローラ

※ ジョナス・メカス:Jonas Mekas, アメリカ, 映像作家, 詩人, 母国はリトアニア


崎谷
 アートですよね。表現者ってことですか?


新津保 いや、表現者とかあんまりそういうのはないよ。とにかくその時点で、つくりたいものをばちっとつくる、ってことだね。


崎谷
 じゃあ、写真じゃなくても良い?


新津保 最初は、扱うメディウムを写真に絞ってはいませんでした。コーネルってちょっと画像検索してみてほしいんですけど、箱の中に、既存のイメージや自分で集めたオブジェを引用して、コラージュを作る人なんですよ。箱の中にいろいろ要素を並べるのですが、たまに写真を使ってるでしょう。自分もこういうの作りたいなと思って、そこに使う写真を自分で撮りはじめたですよ。コーネルに、『メディチ家の少年』という昨品があるんですけどね。


伊藤
 『Medici Slot Machine』ですね。


新津保 10代のときこれに非常に感動してですね。


伊藤
 ちょっと怖いですね。


新津保 そう、怖い。コーネルは過去の絵画からイメージを引用して再構成したのですが、自分がコラージュに写真を使うときは、自分が撮ってみようと思って始めたのが最初なんですよ。

伊藤 なるほど。

新津保 それで写真を練習しました。コーネルがやっていた、箱のなかに何かを集めて入れていくということは、カメラのファインダーの枠の中にいろいろなものを収め、フィルムの層のなかに織りこんでいく写真という作業が近いような気がして、そこから写真に取り組むなかで技術的なことを覚えていきました。ただ、とにかくいよいよ自活しなくてはと思って、一念発起して写真から始めたんですよ。

伊藤 写真のことについてもお聞きしたいところがあって。


新津保
 何でも聞いてください。


伊藤
 新津保さんといえばポートレートも撮られるし、風景も撮られるし、例えば手だけのテクスチャとかも撮られたりするじゃないですか。そういう中で、いつも面白いなと思っているのが、写真全体がフラットに見えてくる印象があるんです。


新津保
 はい。


伊藤
 写真って、被写体を強調するような写真だと大体、どこかに鋭くフォーカスをつくって、そこだけを見せるとかすることが多いと思うんですけど。


新津保
 たしかに。


伊藤
 新津保さんの写真だと、たとえば背景がばーっとあって、そこに1人、女性が立っている。その女性にピントは合ってるんだけど、面積的にはかなり小さくて、ピントの合ってない背景とか手前の物の方がずっと面積が大きかったりしますよね。


新津保
 意識してなかったけど。なるほど。


伊藤
 あと、光がわざと白むほど飛んでるような明るさの中で、逆光で人が写っている。そして、その暗い人の方がよく見える。輪郭やテクスチャは暗くても、そこを潰さないで、背景は白く飛ばして、あえて逆光で撮るとか。


新津保
 技術的なものもありますけど、自分は、左目が悪いんです。だから、日常的に皆さんが見ているより、のっぺり見てんのかもしれないなって。


伊藤
 そうなんですね。


新津保
 それで、バイクで2回、自転車で1回、計3回事故しているから。3回とも左から来るのが見えてなくて。片方だけで見てるから、皆さんより、空間がのっぺり見てるのではと思っています。もしかしたら、それが影響してるかもしれません。


伊藤
 じゃあ、普段の見え方で、新津保さんがきれいだと思った瞬間は…


新津保
 心が漫然と、ぼやっとしているときに見えてるものかも。


伊藤
 普通の見え方とはちょっと違う?


新津保
 美術の授業でデッサンすると、「見えたとおりの空間を画面の中に再構築すればいいんだから、まずは見えたとおり描け」と言われていました。「そうですね」ってやるんだけど、いつものっぺりしていて、あるときコンタクトしてみたら、前後の関係が明確に感じられて、そのとき自分の目は空間がのっぺり見えてんだなと自覚しました。


伊藤
 それこそ、パン・フォーカスで――画面全体にピントを合わせて撮られた写真をあまり見ませんが、それは普段からそういう見方をしてないってことなんですね。


新津保
 多分、自分の中にリアリティーがないんだろうね、それは。


伊藤
 画面の隅々まですべてピントが合っているのは、すごくカメラ的で、身体的ではない?


新津保
 絞りを開放で撮ったとき、ある所だけピント合ってるというのも、カメラ的なんですよ。とにかく、対象を見たときの心の中に生じたリアリティーが、写真の中にしっくり表れるようにできたらいいなというのが、最初に練習していたときのテーマだった。


Kenshu Shintsubo+Takashi Ikegami《Rugged TimeScape_MG_-0042-cat1》(2009)_small_アートボード 1.jpg

《Rugged TimeScape_MG_-0042-cat1》(2009)
Kenshu Shintsubo+Takashi Ikegami

Kenshu Shintsubo+Takashi Ikegami《Rugged TimeScape_MG_0313-cat1》(2009)_small_アートボード 1.jpg

《Rugged TimeScape_MG_0313-cat1》(2009)
Kenshu Shintsubo+Takashi Ikegami

伊藤
 たまに、被写体よりも後ろの風景にピント合わせてる写真も見たことがあります。


新津保
 ありましたっけ? それは間違えて後ろになっちゃったのでは。


伊藤
 いや、そういう感じじゃないですよ(笑)。構図的には多分、ヨーロッパのどこかの街なのかな。背景に、丘状の街がばーんと見えてるところで、その景色を見ている人が手前にいてっていう。


新津保
 それは多分、その写真を見る人が、景色の手前の人に感情移入するようにしてる。でも、その写真の中で言いたいことは、むしろその奥の街並みで。ただ、長くやってると、そうしたことは無意識にいろいろ計算してるんだと思うんですよ。対象をばって見て、「この画面に含まれてる記号は何だろう」「その中のプライオリティーは何だろう」と、瞬時に考えてるような気がする。ただ、自分としては、そうしたものに回収されない、「なんでこれ撮ったんだろう?」っていう画像のほうが引っ掛かりますね。


伊藤
 というと?


新津保
 整理して撮るのは長くやってると上手くなってっちゃうけど、「なんでこんなの写っちゃったのかな?」というのは、たまにあってね。そういうとき、自分は何を見てたんだろうということを考えます。写真は、自分が見たものを残してくんだけど、単なる見た“かす”というか、“跡”みたいなものに過ぎないから。見たときの心の経験を、違う人が追体験できたらいいなと思ってやってます。が、難しいです。写真というのはね、儚いものなので。


崎谷
 刹那的なもの?


新津保
 建物のほうが長く残るし。

崎谷
 うーん、どうでしょう。

新津保
 たとえば、友人の音楽家の仕事とか見ると、体験の強度で言ったら音楽ってすごいからね。


崎谷
 でも、このあいだ四国村で50年近く前のスナップ写真を一緒に見たりしたじゃないですか。


新津保
 あー、うーん、確かにね。とはいえ、あれがもたらす精神的な経験というのはすごく儚いないものですよ。庭園とかに身を置いたときの、圧倒的なイメージの連鎖の量と比べると、写真というのはなかなか弱いメディアだなと思うな。


伊藤
 でも、単に現実を再現するというところじゃない部分に、写真の魅力があるような気はしますけどね。


新津保
 それは、そうですね。


伊藤
 リアルなものを撮って、それがリアルを超えることは、そこを目指しちゃうとない気がしてるんですけど。


新津保
 記号を記述するということの先にある、抽象と具象、意識と無意識の間ですよね。そもそもリアルというのは何だろうということが多分、その作り手の中にあればいいんだろうけど。だから、同業の人が撮った写真を見てるとね、その人がどのくらい掴んでいるかというのは、長くやってると分かります。「ああ、この人、今、掴んだんだな」というのは、別に被写体や活動のフィールドを問わず、あるなと思いますね。


伊藤
 そういうことはありますよね。建築でも。


新津保
 ありますか?


伊藤
 ありますよ。若輩者が言うのもあれですけど「この人、剥けてきたな」というような。


新津保
 剥けてきたなというのはありますね。「最晩年に、こんなにジャンプがあるんだ」というのもありますよね。


伊藤
 ありますね。あと、先ほどの新津保さんの若い頃の話に近いですけど、その頃にやっていたことの因子がずっと育ってて、また出てくるみたいなこともあるじゃないですか。


新津保
 ある。それも面白いんですよね。


伊藤
 ああいう一種の個人の偏執的なところに、びりびりっと来る何かが潜んでたりすることがありますね。


新津保
 僕が最後に写真集作ったのは10年前なのですが、この10年分ぐらいのストックがあって、今それを見直しています。その中には、チェルノブイリに行ったときのものなどもあって。


_DSC6263.jpg


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_DSC6678.jpg


_DSC7048.jpg

《チェルノブイリ原発》(2013) ©新津保建秀

新津保
 2013年に、チェルノブイリ行ったんです。


崎谷
 東さん(※)と行かれたときですか?

※ 東浩紀:ゲンロン創業者, 合同会社シラス代表


新津保
 はい。そのとき、東さんたちと見たウクライナの風土の中で、今まさに大量殺戮が行われていることを考えると、気分的に落ちるんだけど。(※ インタビュー時は2022/3/5、ロシアとウクライナの戦争が始まって2週間程度の時期)あとは、隈さんの本を2020年のオリンピックに向けて制作していたとき、コロナになっちゃったから、最後の方は閑散としてる街の中や、品川ゲートウェイを撮りながら、着手する前には全く予想してなかった東京のディストピア感が入っていたんです。なんらかの、たとえば”チェルノブイリ”というテーマで写真を編むこともできますが、まったく文脈が違うとこで撮った様々なものを編んでみると、どうなんのかなというのを考えています。


伊藤
 それは是非見たいですね。


新津保
 あとは、以前、熊本に行ったら、地震で山が崩落して、そこからかつてはなかった滝が流れていました。


伊藤
 ええ…出続けてたんですか?


新津保
 そう。地元の人が「以前は、あんな場所に滝はなかったんだ」って言っていました。この10年の中で、そんなものは、ちらほらあった。そんな中で、今の四国村のリニューアルにむけた明るいものもあるし。だから今、忘れていた写真を見返してるんですね。


伊藤
 その時の状況下で、それに直面していた自分をメタ認知すると言いますか。


新津保
 そうです。でも、伊藤さんも結構、映像と写真やってるから分かると思うけど、素材を選んでいったり検証していくと、自分がこんなこと考えてたんだというのは、逆に分かるのではありませんか。

伊藤
 それは無意識にファインダーを向けて記録するということの特質かもしれませんね。



<次編:vol.5『見えるもの/見えないものの往還』>

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