新津保建秀さんは、現在数あるメディアや媒体の多くで活躍する、第一線を駆け抜けるカメラマンである。国内外のさまざまな場所で写真撮影を手掛け、その対象はあらゆる著名人・文化人のポートレートから、巨大な展示物としての風景・建築写真などまで広範に渡る。
今回のインタビューでは、新津保さんの近年のプロジェクトを皮切りに、過去の原体験や人々との出逢い、ご自身の中で深めてきたテーマについて聞き、その創作に込められた思想や、写真表現の身体性・時代性・倫理の問題などまで広く深く語ってもらった。
彼はこれまでどんな経験をして、誰と出会い、そしていま何にレンズを向けるのか。
――ファインダーの奥にのぞく情熱の眼光に迫る。
伊藤 それこそ新津保さんの中高時代は、どういう風に過ごされていたんですか?
新津保 とにかく映画を、いっぱい見てました。当時は小さな映画館がいっぱい残っていたのです。三鷹や吉祥寺に映画館があって、3本立てというのをよくやっていた。あと、マイナーな実験映画を上映している映画館が高田馬場のビル内の一室にあって、そういう所で映画を見てましたね。
伊藤 1人で行かれてたんですか?
新津保 1人のときもあるし、友達と一緒のときもあったな。寺山修司に傾倒してる友達がいて、そいつは寺山と一緒で競馬、ギャンブルではなく馬が好きでした。
伊藤 いいですね。カメラマンになろうと思ったのは、いつ頃なんですか?
新津保 なろうかなと思ったのはね、20代の中頃です。それまで8ミリで映像の作品を作ってたんです。
伊藤 じゃあ、動画を撮っていた?
新津保 動画っていっても長編ではなく、儚い、断片的な映像でイメージを喚起させたいと思って取り組んでいました。それをバイトしながらずっとやってたから、「これはちょっと先がないぞ」と思って、写真を仕事にしようと一念発起してはじめました。それが25、26歳のときですね。動画の写真をブローアップして、ポートフォリオを作って、漫画家が原稿持ってくみたいな感じで出版社とかに回りました。「良いですね」って人もいれば、「何これ」って人もいるんだけど。ただ、そうやって、そこで出会った人から仕事を繋げていった感じですね。
崎谷 完全にたたき上げですね。
新津保 そうですよ (笑)。
崎谷 創作者の在り方として、当時の新津保さんにとってモデルになったような人物というのは、誰かいらっしゃるんですか?
新津保 10代の頃に傾倒していたのが、ジョセフ・コーネル(※)というボックスコラージュをやっていた人と、あとは、バルテュス(※)なのですが、バルテュスって分かりますか? あと、ジョナス・メカス(※)っていう…
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