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INTERVIEW

NO.54

内藤廣 vol.3『建築家・内藤廣になる前の話』

INTERVIEW

2022/08/01 01:29

#内藤廣
#糸川英夫#山口文象#林田英治#鹿取克章#佐藤寛#近藤潤#室町正志
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日本建築学会賞など数多くの賞を受賞し、日本を代表する建築家である内藤廣さん。近年は、大都市東京の真ん中に明確な用途をもたない異質な施設「紀尾井清堂」が建ち、東日本大震災の復興現場では「高田松原津波復興祈念公園の国営追悼・祈念施設」が完成した。また、東京都の景観審議会の委員を長年務め、現在進行中の渋谷駅周辺の再開発プロジェクトでもデザイン会議の座長などを務める。
今回のインタビューでは「風景とは、景観とは何か。そして我々には何ができるのか」という問いを起点に、いま内藤さんが建築に込める想いを尋ね、また幼少期の記憶や感動した原体験、さまざまな人との出逢いと別れ、これからのことなど、内藤さん自身の過去・現在・未来についても語ってもらった。
「それは”生きる”っていうことです。」
――生と死の狭間で、つくり続け、何を残し、どこに還るのか。
聞き手は、東大景観研究室時代の教え子でもある土景編集長・崎谷浩一郎。内藤廣の個人史にも迫る珠玉のインタビューを公開。

崎谷 今しばらく、建築家・内藤廣の言葉に圧倒されて聞き入ってしまっていたのですが、実は今日は、内藤さんご自身から、建築家・内藤廣になる以前の話を聞きたいなと思ってきたんです。


内藤 以前って、いつのことなのか分からないよ、俺(笑)。


崎谷 とはいえ、以前と呼べる時期、やっぱりあるんじゃないですかね。


内藤 高校生の頃とか?


崎谷 そうですね。たとえば幼い頃、建築のケの字もない世界もあったわけじゃないですか。その頃のことで、なにか内藤さんの中で覚えてる体験とか風景とか、あるのかなと。


内藤 誰でもたくさんあると思いますけどねえ。


崎谷 今までの話を聞きながら、おそらく内藤さんは、自律的にシャドウワークをもう何十年も続けられてきたのかなと思うんです。けど、その原動力であったり、その生命としてのエネルギー、精神力みたいなものって、小さい頃に培われてたりすることが多いと思うんですよね。


内藤 僕はそんなに頭のいい人間じゃないので、子どもの頃から苦労はしましたね。


崎谷 苦労ですか?


内藤 物覚えが悪いし、要するに、皆さんみたいに勉強ができなくて。


崎谷 いや、そんなことはないはずだと思いますけど…(笑)。


内藤 出来損ないの子どもで。たぶん慢性鼻炎か何かでいつも鼻が詰まっていて、記憶力がよくなかったのはそれだと思ってるんだけど(笑)。だから、ぼーっと考える。論理的に考えるっていうよりは、ぼーっと考えるタイプだったんだよね。それはそれで良かったのかなと思うんだけど。


崎谷 あんまり活発じゃなかったんですか? たとえば、野山を駆け巡るみたいな。


内藤 野山を駆け巡る系だよ。だけど、勉強とかになると嫌だなって。うちの親父とお袋は、そういう意味では勉強がよくできた人たちだったから、なんでこの親でこんな頭の悪い子どもが生まれたんだみたいな感じだったと思います。


崎谷 それは、そういう風に周りから言われてたんですか? 勉強やりなさいとか、おまえは出来の悪い子だねみたいな。


内藤 言われたことはあるね。まあしょうがないね、できないんだから。たぶん小学校の成績なんて、東大生の優秀な人らの通信簿なんかと僕のと並べると、天と地の差ぐらいあると思うよ。


崎谷 彼らはそういう養成所みたいな所に毎日行ってたりしたわけでしょう。僕の娘も養成所に行ってますけど、やっぱりすごいですよ。パッパラパーだったのが、できるようになるんです。本当に驚くんですけど、3年ぐらいあればできるようになる。


内藤 でも、ある種、僕がそういうものに対して適応力を欠いてるっていうのは、秘書の小田切もよく知ってます。いまだに適応力を欠いてるよね。


小田切 どうしてそんなことが苦手なの、と思うことがあります(笑)。


崎谷 というと?


内藤 たとえば、免許の試験てあるでしょう、運転免許。そうするとその最後に学科試験みたいなものがあったりする。


崎谷 ありますね。


内藤 あれが本当に嫌でね。たぶんいつも最低点に近いはず。それから、一級建築士の試験とか本当に苦手だったんだけど、一級建築士の免許も更新っていうか、三年に一度は定期講習に行かなきゃいけない。終わると、最後はマークシート渡されて試験するじゃない。苦手なんだよ、あれ(笑)。


崎谷 それは、ちゃんとやってないだけじゃないんですか?


内藤 一生懸命やってるの。ものすごく一生懸命にやって、それでもいつも点が取れない。


崎谷 本当かな(笑)。


小田切 なんでそんなに時間がかかってるんだろう、と思いながら見てます。


崎谷 そうなんですか。


内藤 ある種そういう適応力を欠いていて、ぼーっと考える。でも、このぼーっと考える思考が、まあ僕なりのアイデンティティーなのかもしれない。だから、コンペやるにしても何やるにしても本当に苦労するよね。


小田切 スッとはいかない。


内藤 スッとはいかないんだな。まあ、とにかくそういういわゆるデジタルな思考っていうか、論理的な思考には僕はたぶん向いてないんですよ。適応力を欠いている。


小田切 論理的な思考には向いてると思うんですが、マークシートとか何かそういうシステムに組み込まれようとすると、途端に拒絶反応をおこしていますね。


崎谷 本来の生命力を維持するための、これに組み込まれちゃ駄目だっていう、多分その拒絶反応をずっと内藤さんは維持し続けてるなって思っています。


内藤 本能かな。でも、論理的に把握しないでぼーっと捉える感じの思考方法というのはあって。たとえば、とんでもない再開発が目の前にあるときに、それっていうのは、ものすごく精巧な組み物で、立体的に構築されてマネージングされてるんだけど、そういうのをぼーっと眺める能力はあるはず。僕なりにぼーっと見て、良い悪いって判断するっていうのがある。渋谷なんかをずっとやっていて、あれもものすごいプレーヤーがたくさんいて、でもそいつらと何となく状況を共有する。こうかもなみたいな、そういう感じでしかないので。デジタルに、「あと、じゃあ何平米どうしようか」とか、そんな話っていうのはどうでもよくて、参加してるプレーヤーがみんなでこんな感じかなとかって決まったら、もうそれで僕の仕事は終わってるわけ。その空気はできるだけ作ろうとしてるんだ。新宿でやっても、品川でやっても。


崎谷 内藤さん、それまた今、建築家・内藤廣になっちゃってます。


内藤 ごめんなさい。


崎谷 全然いいんですが(笑)。


内藤 やっぱり境目がないんだよ、だから(笑)。


崎谷 その、小さい頃ぼーっと考えていた体験や記憶は、何かありますか?


内藤 なんだろな。たとえば、鎌倉の小学校と中学校だったんだけど、グラウンドを共有していて、その校庭の真ん中にでっかいケヤキがあって、それが大好きで…ふと、そんなの思い出した。まだ立ってるけどさ。でっかいケヤキ。そういう、何かぼーっとした原体験。もちろん、そんなのいくらでもあるけどね。


崎谷 今も立ってるという、小中の頃のケヤキ。最近見に行きました?


内藤 4、5年前に行ったかな。


崎谷 本当ですか。いいですね。それは見に行かないと。でも、小さい頃も友達がいたりとか、ちょっとセンシティブな話になりますけど、家族の話とかもいろいろあったりすると思うんです。その当時、小さい頃から僕はこうだった、変わらないって話ですけど、内藤さんの幼少期の、周囲の話ってあんまり聞いたことないですね。


内藤 僕の?


崎谷 御兄弟とか、親御さんとか、何か少しご家庭のことなど。


内藤 そんな話をするわけ、ここで(笑)。


崎谷 そうですよ(笑)。これは内藤さんに限らず、聞いているんです。お聞きしたものの、すごくナイーブな話になることがあって、記事として出すのは難しいってなることもあるんですけど、話せる範囲で良いので、せっかくなのでちょっとお聞きしたいなと。


内藤 (少し思案して…)まあ、僕の父親は、東大の航空学科に現役で入って、その後、糸川研究室(※)でみたいな。研究室の同窓生の話によるとよくできたらしい。実は、生産研(=東京大学生産技術研究所, 旧第二工学部)の70周年の行事で一昨年に講演を頼まれた。70周年だからなと思って調べてみたら、親父は第二工学部の1期生だった。それで、少し父親の話をしました。何年か前だけど、父親の卒業研究とか卒業設計は、たまたま遺品を整理してて僕が見つけたのがあって、東大の博物館のアーカイブが欲しいというので納めました。敗戦時、航空の資料は全部中庭で燃やしたんだそうで、卒論や卒業計画はあまり残っていないんだそうです。で、父親の卒業計画はアメリカ本土爆撃機ですよ。超長距離飛行ができる爆撃機の設計。まだ学生ですよ。当時、戦時短縮で4年でじゃなくて3年で卒業なんですよね。3年で卒業の卒業設計でもかなりの風洞実験をやって、機体設計もやって。機体設計のデザインっていうのも、別に図面だけじゃなくてスケッチも描いてあるんだけど、子供の僕がいうのも何だけど素晴らしいスケッチで驚いた。それで、その論文の文章の冒頭に「これをすぐにでも実現するべきだ」って、当時の陸軍省かどこか宛てに書いてるんです。3年生ですよ、大学の。そういう男だったんです。なので、多分優秀だったんでしょう。それで、母親は藝大のピアノ科で、当時は同級生は1学年5人しかいなかったっていうのだから、母親もおそらく優秀だったんでしょう。だから、多分その2人の間で生まれた子どもは優秀だろうと。
※ 糸川英夫:1912-1999, 東京大学教授, 航空工学, 宇宙工学, 「日本の宇宙開発・ロケット開発の父」と呼ばれる

内藤両親と.jpg

内藤さんとご両親


崎谷 そうなんですか。すごいですね。


内藤 学歴としてはなんかね、すごいとは思うけど。ところが、両親の当てが外れた。まったくの期待はずれ。ともかく僕は勉強とかそっち方面ではすごく苦労して育ったんです。全く遺伝的には受け継いでないね。まず、物覚えが悪い。あることを覚えるのに人の倍は努力が要る。だから出来のわるい子供や学生の気持ちはよくわかる(笑)。


崎谷 御兄弟はいらっしゃったんですか?


内藤 弟が1人。ちょっと年が離れて、8歳下です。弟は父親的な頭があって、要するに見たら覚える。うちの父親なんかは、例えば小学校や中学校の教科書をページと何行目まで覚えてるっていう人ですから。多分見たら覚えちゃう。あの頭の1割でも僕にあったら嬉しいんだけどなー。


崎谷 まれに、そういうスーパー小学生みたいな人いますね。


内藤 うん。僕には全然ない。正反対、ぼーっとしてる。多分、母親の血を引いたのかもしれない。まあ、そんなことなんて、あんまり皆さんには喋ってなかったですね。恥ずかしい話だから。


崎谷 いや、そうなんですね。初めて聞きました。


内藤 生産研の記念講演では、僕の考えていることを喋ったあと、70周年だから、最後に実は父親は第二工学部の1期生でみたいな話をちょっとさせてもらいました。少し付け加えると、親父はエンジニアとしては不幸だった。戦後に航空分野はアメリカに徹底的に潰されて、自動車の設計とか色々やりましたけど、あまり満足なことはできなかったはずです。


崎谷 友達とかはどうですか?仲良い幼なじみとか。


内藤 あんまりいなかったですね。


崎谷 山口文象さん(※)の話は聞いたことがあるんです。でも、それはお友達じゃないしみたいな。

※ 山口文象:1902-1978, 建築家


内藤 お友達じゃないよ。母親の実家の隣のオジサン。


伊藤
 当時は普通の小学校に通われてたんですか?


内藤 そうですね。鎌倉で御成小学校と中学校っていう公立。


崎谷 そこでの友達はどうでしたか?


内藤 友達っていうのも…いましたけど。


崎谷 普通、中学校のときの仲良い友達って今でもたまに連絡とったり会ったりみたいなことがあると思うんですが。篠原先生なんか、しょっちゅう一緒につるんでるというか。


内藤 ないよね。でも、高校の友達はあんのかな。


崎谷 湘南高校ですか。

湘南高校.jpg

湘南高校の頃の写真。最後列左から3人目。


内藤 結構みんな同級生が偉くなって。うまくいってないやつはあんまり寄ってこないけど(笑)。出世頭には林田(※)っていうやつがいて、これはテニス部のキャプテンで、でも東大が安田講堂炎上で受験できなかったので慶應に行って、それでJFEに行って、JFEの社長と会長やって、そのあと鉄鋼連盟の会長やってみたいな、そういうやつがいます。

※ 林田英治:1950-, JFEホールディングス代表取締役社長,特別顧問など歴任。 日本鉄鋼連盟第14代,第16代会長


崎谷 高校の同級生ですか?


内藤 高校の同級生。一番仲のよかったのが鹿取(※)という男。これは悪友の類。これも東大がなかったので一橋に行って外務省。条約課長まで行ったんでもっと上に行くかと思っていたけど、省内で言いたいことを言うので外されて、イスラエルとインドネシアの大使をやった。筋金入りの平和主義者。もう一人、佐藤(※)っていうのが日立の専務までやったし、近藤(※)っていうのは富士重工の副社長までやった。それから室町(※)っていう男がいて、それほど親しくなかったんだけど、これが偉いやつで、東芝が本当に駄目になって粉飾で大事件になったときにアメリカ支社長か何かやってて、呼び戻されて社長に据えられて、後始末を全部やって、やることやったらさっさと引いちゃった。これはエライ。そういうやつは結構いる。ただ多くの場合、実は高校3年生のときに東大紛争で受験がなかったからなんだよね。みんな一橋に行ったり、別の所に行ったりいろいろあるけど、そいつらが偉くなってる。そういう連中がときたま集まったりっていうのはある。

※ 鹿取克章:1950−, 外務省入省後,大臣官房審議官, 駐イスラエル大使, 駐インドネシア大使などを歴任。

※ 佐藤寛:1950-, 株式会社日立製作所 執行役専務, 株式会社日立ビルシステム 取締役社長などを歴任。

※ 近藤潤:1950-,富士重工株式会社 副社長, 株式会社SUBARU 取締役会長などを歴任。

※ 室町正志:1950-, 株式会社東芝 元・取締役会長兼代表執行役社長, 特別顧問などを歴任。


崎谷 当時の東大紛争で、東大に行かなかった人たちが社会的に非常に活躍されてる。


内藤 うん。まあ文武両道の自由な校風だったから、もともと学校自体が受験向きじゃなかったんだろうね。それがうまく時代状況とシンクロしたんじゃないかな。



<次編: vol.4『求めなければ生まれない』 >

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