日本建築学会賞など数多くの賞を受賞し、日本を代表する建築家である内藤廣さん。近年は、大都市東京の真ん中に明確な用途をもたない異質な施設「紀尾井清堂」が建ち、東日本大震災の復興現場では「高田松原津波復興祈念公園の国営追悼・祈念施設」が完成した。また、東京都の景観審議会の委員を長年務め、現在進行中の渋谷駅周辺の再開発プロジェクトでもデザイン会議の座長などを務める。
今回のインタビューでは「風景とは、景観とは何か。そして我々には何ができるのか」という問いを起点に、いま内藤さんが建築に込める想いを尋ね、また幼少期の記憶や感動した原体験、さまざまな人との出逢いと別れ、これからのことなど、内藤さん自身の過去・現在・未来についても語ってもらった。
「それは”生きる”っていうことです。」
――生と死の狭間で、つくり続け、何を残し、どこに還るのか。
聞き手は、東大景観研究室時代の教え子でもある土景編集長・崎谷浩一郎。内藤廣の個人史にも迫る珠玉のインタビューを公開。
崎谷 今しばらく、建築家・内藤廣の言葉に圧倒されて聞き入ってしまっていたのですが、実は今日は、内藤さんご自身から、建築家・内藤廣になる以前の話を聞きたいなと思ってきたんです。
内藤 以前って、いつのことなのか分からないよ、俺(笑)。
崎谷 とはいえ、以前と呼べる時期、やっぱりあるんじゃないですかね。
内藤 高校生の頃とか?
崎谷 そうですね。たとえば幼い頃、建築のケの字もない世界もあったわけじゃないですか。その頃のことで、なにか内藤さんの中で覚えてる体験とか風景とか、あるのかなと。
内藤 誰でもたくさんあると思いますけどねえ。
崎谷 今までの話を聞きながら、おそらく内藤さんは、自律的にシャドウワークをもう何十年も続けられてきたのかなと思うんです。けど、その原動力であったり、その生命としてのエネルギー、精神力みたいなものって、小さい頃に培われてたりすることが多いと思うんですよね。
内藤 僕はそんなに頭のいい人間じゃないので、子どもの頃から苦労はしましたね。
崎谷 苦労ですか?
内藤 物覚えが悪いし、要するに、皆さんみたいに勉強ができなくて。
崎谷 いや、そんなことはないはずだと思いますけど…(笑)。
内藤 出来損ないの子どもで。たぶん慢性鼻炎か何かでいつも鼻が詰まっていて、記憶力がよくなかったのはそれだと思ってるんだけど(笑)。だから、ぼーっと考える。論理的に考えるっていうよりは、ぼーっと考えるタイプだったんだよね。それはそれで良かったのかなと思うんだけど。
崎谷 あんまり活発じゃなかったんですか? たとえば、野山を駆け巡るみたいな。
内藤 野山を駆け巡る系だよ。だけど、勉強とかになると嫌だなって。うちの親父とお袋は、そういう意味では勉強がよくできた人たちだったから、なんでこの親でこんな頭の悪い子どもが生まれたんだみたいな感じだったと思います。
崎谷 それは、そういう風に周りから言われてたんですか? 勉強やりなさいとか、おまえは出来の悪い子だねみたいな。
内藤 言われたことはあるね。まあしょうがないね、できないんだから。たぶん小学校の成績なんて、東大生の優秀な人らの通信簿なんかと僕のと並べると、天と地の差ぐらいあると思うよ。
崎谷 彼らはそういう養成所みたいな所に毎日行ってたりしたわけでしょう。僕の娘も養成所に行ってますけど、やっぱりすごいですよ。パッパラパーだったのが、できるようになるんです。本当に驚くんですけど、3年ぐらいあればできるようになる。
内藤 でも、ある種、僕がそういうものに対して適応力を欠いてるっていうのは、秘書の小田切もよく知ってます。いまだに適応力を欠いてるよね。
小田切 どうしてそんなことが苦手なの、と思うことがあります(笑)。
崎谷 というと?
内藤 たとえば、…
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