NO.61
篠原修の「面白かった本」その7
REVIEW
2022/09/20 01:08
東京大学名誉教授・篠原修(景観工学・設計計画思想史)が手に取った本の内容を、本人の語り口で紹介する書棚のぞき見企画。
GSデザイン会議のメールニュースで配信された約200本に及ぶ記事から編集部でピックアップして掲載します。
今回は第七回を掲載。
篠原修氏が土木学会誌に寄書した『本と私―乱読を無理に系統立ててみると』。
氏自ら語るその読書術の方法論と効用のすゝめ。
2013年12月20日 篠原修
前回書いたように長らくさぼっていたので、今回は埋草的に昔書いたものを再掲します。ただし随分前に「土木学会誌」に書いたものなので、初見の人も多かろうと思い、これで勘弁してもらいたい。
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『本と私ー乱読を無理に系統立ててみると』2001年9月
敬愛する漱石先生。
嫌みな爺さんだが、やっぱり切れない荷風散人。
随筆の天才、百閒先生。
本当はこういう人たちのことを書きたい。書けばそれなりには面白い話にはなる予定だが、余りに偏った読書の話になる恐れがあり、また何よりも、どういう本を読んだらよいか、あるいは読書で得るところを問う、もっと有り体にいえば幾何かのハウ・トウを期待している本欄の読者諸兄を裏切ることに成り兼ねない。
したがってここでは、日頃どういう風に本を読んでいるか、あるいはその結果どんなよいことが、またはまずいことが起こったのかを思いつくままに書くことにする。
まず第1に、本当はこういうことを書くと拙いのだが、専門および専門に近い人の本は余り読まない。
具体的には工学系の人の書く景観や都市の設計、計画関係の本である。その理由を反省してみると、よく知っている分野故に知的な刺激を受けることが少ないということと、筆者が自分の分野にこだわり、その社会的な重要性を力説せんとする余り思考の幅が窮屈になって、論旨に伸びやかさを欠くためである。これでは一般の読者を惹きつけることは望めない。要するに執筆態度が頑なで、読んで面白くない(これは自己反省も込めて)。
第2に、多人数による分担執筆、マスコミ系のルポルタージュの類の本は読まないことにした。
本としての主旨、一貫性に欠け、突っ込みが浅い。したがって得る所は少ない。この失敗に気づいたのは愚かにもそう遠い過去のことではなく、自分が多人数の分担執筆を頼まれ、付き合いで書いた原稿の後味の悪さをもっと早く自覚すればよかったのだ。したがって、学会編や協会編的なハンドブックやマニュアル本の類が面白くないのは致し方のないことである(役に立つ、立たないを言っているわけではないので誤解のなきよう)。
第3に、丸谷才一や山崎正和などの都市や景観に興味をもっている文科系知識人の本を好んで読む。
理由は簡単で文章は旨く、話が面白いからが、これに多少の職業的な打算が働く。つまり、彼らは都市や景観をこのように理解しているのか、という切り口の新選さやその博識に得る所が大きいからだ。こういう分野では、近年の林望(イギリス)や鹿島茂(フランス)の本も大いに参考になる(文章もやっぱり巧い)。
第4に、独自の研究分野を拓きつつある学者の本もよく読む。
梅原猛(古代日本学)、梅棹忠夫(文明学)、養老猛司(脳論)、多田富雄(免疫学)、網野善彦(日本中世史)など。これは対象に対するアプローチの取り方、つまり研究方法論を考える際のよいヒントとなるからである(もちろん、まず第1に面白いから読むのだが)。
時折、篠原さんは、いろんなことを思い着きますネ、と言われるが、その源は、上記の第3、第4の読書によるのだろうと思う。この例に則していえば、土木の人間はもっと他分野の、しかし、方法論的に参考になりそうな他分野の本を読むべきだろう。橋梁構造の寺田和巳氏は、橋梁技術者に欠けているのはポピュラーサイエンスの基礎教養だという。
より具体的には自動車、車輛、航空機の構造に学ぶべきとのこと。
第5に、専門には全く役に立たないエッセイの類。これを最も好んで読む。
古くは内田百閒先生や吉田健一。それに続いて堀田善衛。近年では團伊玖磨や半藤一利、玉村豊雄、藤原正彦など。何故かと聞かれれば、商売に全く関係ないからで、もう少し言えば、一筋のつながりをもちつつも別の世界があるからだ。『草枕』の冒頭を思い出してもらいたい。
最期に、気に入った人の本は次から次へと読む。
上記した人の本はほとんど読んでいる。だから、本屋で気に入りそうな人の本を発見すると真に嬉しい。これでまた、読む本に当分事欠かないと思うからだ。
さて、今度の出張には誰を携えていこうか。
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以上当時の記事では5つの読み方を紹介したのだが、今ではもう1つの読み方が加わっている。
それは本と対話しつつ自分の考えている事のヒントを本から引き出そうという読み方である。であるから1冊の本から1つでもヒントが得られれば、もうけものと思い、極端に言うと読んでいる本の面白さや論理一貫性、正しさなどはどうでもよいという事になる。
いよいよ読み方が邪道になってきたのです。
追伸。
小生が出した近著「内藤廣と東大景観研の15年」を評して「暴露本」と言う人間がいるが、それは「暴露」という意味がわかっていない言い草である。「暴露」とは当事者が他人に知られたくない、隠している事を非当事者が暴いて一般に知らしめる事を言う(週刊誌でよくみられるように)。
拙著では当事者が諸々の事情を明らかにしているだけで、また著者以外の登場人物にとって知られたくないだろうことも書いていない。従って本書は「暴露本」ではなく、一種の回顧録と言うべき本である。