本メディア『土景』にてディレクターを務める建築家、伊藤遼太さん。前編のレビューでは、その思考と実践から、時間と空間の関係をテーマに話してもらった。今回のインタビューでは、講演会場からの質問をもとに、創作における言語化の重要性と、その実践における困難についてが議論された。
「これが良い、面白いってことを見立てる人が、どの分野でもいるんです。たとえば、松尾芭蕉の詩も、あれは芭蕉が詠んだから、僕たちはそういう自然観を言語化できたんだなと思うんです。」
先人の知恵を借り、自身を再構築し、未踏の領域に踏み込むこと。その温故知新の創作の姿勢に迫る。
崎谷 講演、ありがとうございました。
伊藤 ちょっと疲れました(笑)。
崎谷 伊藤さんはあんまり建築の話じゃないって仰ってましたけど、僕は思いっ切り建築の話じゃないかなと思ったんだけど(笑)、みんなはどう思ったんでしょう。こういうのは建築ど真ん中の話なんじゃないの?
伊藤 どうなんでしょう(笑)。少なくとも、建築を勉強し始めてから、こういった内容を誰かに教わった経験は全くなかったですね。
崎谷 そうなんだ(笑)。ちょっと会場のコメントも聞いてみたいですね。僕もいろいろ聞きたいこと話したいことはあって、今日は伊藤さんに話してもらって良かったなって思いながら聞いてたんですけど、まずは会場の人達の印象を聞きたいんですよね。
伊藤 大丈夫かな。
崎谷 ワケがわかんなかったみたいな人いるのかな? 全然分かるよね? 何ていうのか、皆こういうことを考えたりしてるんじゃないのって思って、俺は聞いてたんだけど(笑)。コメントなど、いかがでしょうか。
会場 よろしくお願いします。
崎谷 お、よろしくお願いします。
会場 お話ありがとうございました。私、実は、ちょうど午前にお寺のお庭を見てきたので、すごいタイムリーだなと思いながら伺ってたんですけど、そこのお寺は何の説明もないお庭だったので、ただ、ぼーっとして、「いいなあ」とか思いながら戻ってきて。
崎谷 まさに。ちょうどのタイミングでしたね(笑)。
会場 そうなんです(笑)。それで、それぞれエイジングされた建物もありましたし、流れてる水もあったり、そこでお庭を整備されている方がいて、枯れたものを回収していたりして。そういうのを見ながら、全て一緒くたに、「なんとなく良いな」って思ってたものを、すごくクレバーに解説していただいたような気がして。
崎谷 聞く前に見に行ってて良かったですね(笑)。この時間差で言うと、いろいろご自身で感じられた後で、こういう話を聞いて良かったと思いますよ。
会場 はい(笑)。それで、ちょっと話が変わってしまうんですけど、後半の話を聞いていて、私もぼーっとする時間って好きなんです・・・けど、私も設計しながら、それって本当につくれるものなのかなって、いつも思っていて。どちらかといえば、日常生活の中で発見することのほうが多い感じがするのですが、そこら辺をどう捉えてるのか伺ってみたいなと思います。
崎谷 なるほどね。ぼーっとする時間体験は、創造できるのか。いかがですか。
伊藤 僕はつくれるものだと仮定して考えています。ただ、仰る通りで、今話しているようなことって、設計の分野で、多分あまり議論されてないんですよ。
崎谷 そうなんですか? それがすごく意外なんですよね。
伊藤 居心地がいい空間とか、ゆっくりできる空間というようなことを、みんな漠然と言うんですけど、それが人間のどういう意識の構造に基づいているのか、そのときどういう状態なのか、あるいはどういう物質が人間にそういう作用をもたらしてるのかっていう事前知識はほとんど無いんですね。だからこそ、どこか行ったときに、「なんとなく良いな」って思っているその感覚を言語化していくべきだと思いますし、僕もそれを見出すことに苦労しています。ただ、そういう感覚も分解して見てみると――これがこう作用をしてるんだろうとかって、自分の感覚は少しでも説明がつけられるんですよね。ですから、今日紹介したことは、それをまとめてみたというところなんですけど。何と何を組み合わせたら、どういう効果があるのか――それは自然現象と同じだと考えているので、科学的・言語的なアプローチで、実現できるんじゃないかと思ってはいます。
崎谷 建築分野の人には、まさにそこはやってほしいところですよ。僕は土木でも、それをやりたいと思っていますし。けれど、建築の方が操作できる対象を細かくできる気はしていて、とくに平面的な、垂直的な境界をつくれるというのは非常に強い。レクチャーの中にあった豊島美術館の事例は、とても分かりやすいですよね。土木は境界をつくることに機能を求められるので、そこは大きく違うんですよ。なので建築は是非ともそこは目指してほしい。つくれるものなのか――たしかにつくるというよりは、個々人が自然に発見するものでもあると思うんだけど、是非つくることをやめないでほしいなっていう気はするんだよね。
会場 そうですね、はい。ただ、けっこう、主観に基づくというか、個人差があるもののような気がして…それが難しいというか。
伊藤 はい。そのとおりだと思います。でも、それは、時間の感覚に限っての話じゃない気がしていて、これが良いとか面白いとかってことを見立てる人が、哲学でも芸術でもどの分野でもいるんですよ。そういう人たちの勉強をして、自分の知覚や感覚を増やしていく。たとえば、松尾芭蕉の詩も、あれは芭蕉が詠んだから、僕たちはそういう自然観を言語化できたんだなと思うんですよ。
会場 ああー、なるほど、そうですね。

風景に対する見立てと主観の解釈 (『土景』Aboutより抜粋)
崎谷 芭蕉が見立てたんだな。『土景』では、まさにその辺をやっていこうとしてるよね(笑)。
伊藤 そうですね(笑)。そこをあんまり語らないまま続けるくらいなら、間違っててもいいから、言語化していきたいという気持ちはありますよ。
崎谷 むしろ、そこをやっていかないとね。これは建築になるのかみたいなこと、よく言いますよね。土木と建築では、微妙に差異もあるかと思いますが、それこそ建築の醍醐味なんじゃないかなという気はします。
伊藤 自分たちの実感というか、感じ方や考え方に名前を付けてあげる、他の人に分かってもらえるようにする――アートとか、哲学とか、数学とかもそうかもしれませんが、そういうことをしていくことが役割だと思うんです。
会場 はい、なるほど。
崎谷 まさに今日見られてきた日本庭園に解説がなかったというのは、非常に良いことですよね(笑)。解説があったら、先に見立てて見てしまうから、頭がそうならない。よかったですよ。
会場 ああ(笑)。そうですね、本当に。
伊藤 美術館に行くと、絵より先に説明欄を読んでる人がいますよね。ああいうことは本来、駄目なんです(笑)。
会場 (笑)。
崎谷 その辺は、そういうふうに見たい人もいるっていうか。御朱印帳を集めるような感じで美術館に行く人たちは、多分そういう人たちだと思いますけどね。
伊藤 見方を教わって見ると、勿論なるほどってなるのかもしれませんが…クリエイティブと言われる分野の人とか、ちゃんとつくる分野の人はやらない方が良いですよ。
崎谷 求めがちなんですかね。答えを知りたい、正解を知りたい、間違いたくないとか、人と同じでいたいとか、そういった部分は結構な人にありますよね。でも、その世界は、それだけでずっと進んでいると行き詰まっちゃうんですよね。だから、デザイン一般というと、ちょっと違うかもしれないけど、アートや建築も、そこにちょっとした余白をつくるというか、そっちだけじゃなくても良いんだよってことを提示する役割を担ってると思いますね。ご質問、ありがとうございました。
会場 ありがとうございました。

旅行中にふと列車の窓から見えた景色
「なんとなく良い」を言語化するために、印象に残った景色はスナップに収める。あとで役に立つ。
崎谷 もう一人くらい、会場から質問を。どうでしょうか?
会場 よろしくお願いします。
崎谷 よろしくお願いします。
会場 私も同じように時間とかに興味がありまして、とくに空間から時間が語り掛けてくるものだと話されていたのが、すごく腑に落ちたというか、たしかに、物質の表情から時間が語り掛けてくるっていうことにすごく納得したし、そういう時間の在り方について考えられたら良いなっていうように思いました。私も時間の中で変化していく過程や差異のようなことに興味があって、でも、どうやって言語化していけば良いというか・・・
崎谷 もし時間的な差異とか変化を取り込もうと思うんであれば、伊藤さんがやっていたように、自分の中で時間というものに対して、いくつか切り口や設定を持って、言語化を出来ておくと良さそうですよね。いろんな先人がいて、時間について語ってると思うんです。そういう部分については、どうですか?
会場 うーん・・・そうですねえ。
崎谷 難しいですよね(笑)。では、僕も同じようなところで伊藤さんにお聞きしたいんですけど、木村敏さんの話がちょっとあったじゃない?
伊藤 ありました。
崎谷 たしか木村さんの本だったような気もするんだけど、ビオスとゾエっていう言葉があって。伊藤さんが話してくれた話っていうのは、生か死でいうと生きる部分の世界の話だと思うんですよね。それで、ギリシャ語では、生きる、生っていうものに二つの言葉が当てられていて、ビオスと、ゾエっていう言葉。
伊藤 はい。
崎谷 ビオスっていうのは――今のバイオロジーの語源になった言葉で、有限の時間で、戻らない時間、行ったきりの時間。ゾエっていうのは無限、もしくはサイクルする時間、巡る時間。僕なんかだと、まず、この二つで設定して考えるのがスタンダードとしてあるのかなと思ってたんだけど、どうでしょう? 伊藤さんは三つの時間でやってたけど、僕は二つぐらいに考えてて。伊藤さんの言った、普段僕らが一分一秒と言ってるのはビオスの方で、でも、その一分一秒を忘れる瞬間っていうのはゾエの方なのかな、とか考えていたんですけど。

三種類の時間について
伊藤 ビオスとゾエの話は、たしかに…木村さんの書かれてる本がありましたね。ただ、今回の話で参照してきたところとは違うので…どうかなあ。
崎谷 そうか(笑)。僕が昔、ギリシャ語のビオスとゾエっていう二つの生に対する時間の言葉を知ったときに、とても腑に落ちた部分があったんですよ。それで、先ほどの質問者の方が、差異や変化というものについて言っていたので、それはビオス的な時間の話なんじゃないかなとか思ったわけですよ。

ビオスとゾエ
個体生命の有限で小さな時間と、巡る時間あるいは無限の繋がる時間
伊藤 そうなんですね。なるほど。すいません。今この場では、なんとも…。でも、そうですね――ギリシャというところで言うと、ギリシャ神話にクロノスという神様がいますよね。
崎谷 クロノス?
伊藤 無常に奪い去っていくような、どうしようもない時間の神様みたいなのがいるんですよ(笑)。それこそ、今回でも話した、無限化された単線状の時間の権化みたいなもので。あと、カイロスという神様が、ある瞬間におけるタイミングとかチャンスを象徴すると言われていて、それからアイオーンという神様もいると。それら三つの神様はそれぞれ意味や役割が違うのですが、時間に関連した話だと、いろいろなかたちで出てきますし、今回の話にも絡んでいる話かなと思うんですけどね。ビオスとゾエの話は…次回までに、また盛り込んで…(笑)。
崎谷 僕もまた盛り込んでおきますよ(笑)。先ほどの質問をくれた方も、是非その辺りぐらいから入ってもらえると良いかもしれないですね。今日のレクチャーであったように、時間というものに対して着目すると、いろいろ過去に、古典的に言語化されてきたり、哲学の中で語られてるところがあるから、それを紐解いていくだけでも十分アプローチできると思うんですよね。ぜひ、そこは、やってもらいたいなという気はしました。
会場 そうですね。変化の見せ方をどうやれば良いのか、自分の卒業設計のときとかも考えていたのですが、いまだに言語化していきたいなと考えていて。ありがとうございました。
崎谷 ありがとうございました。