NO.57
内藤廣 vol.6『理解しあえるということ』
INTERVIEW
2022/08/13 00:09
日本建築学会賞など数多くの賞を受賞し、日本を代表する建築家である内藤廣さん。近年は、大都市東京の真ん中に明確な用途をもたない異質な施設「紀尾井清堂」が建ち、東日本大震災の復興現場では「高田松原津波復興祈念公園の国営追悼・祈念施設」が完成した。また、東京都の景観審議会の委員を長年務め、現在進行中の渋谷駅周辺の再開発プロジェクトでもデザイン会議の座長などを務める。
今回のインタビューでは「風景とは、景観とは何か。そして我々には何ができるのか」という問いを起点に、いま内藤さんが建築に込める想いを尋ね、また幼少期の記憶や感動した原体験、さまざまな人との出逢いと別れ、これからのことなど、内藤さん自身の過去・現在・未来についても語ってもらった。
「それは”生きる”っていうことです。」
――生と死の狭間で、つくり続け、何を残し、どこに還るのか。
聞き手は、東大景観研究室時代の教え子でもある土景編集長・崎谷浩一郎。内藤廣の個人史にも迫る珠玉のインタビューを公開。
田邊 内藤さんはよく音楽の話をされることあると思うんですけど、先ほどお母さんの話もありましたし、幼い頃にそういうことをやっていたとか、よく何か聴いていたとか、そういうのはあったんですか?
内藤 音楽に関しては、多分僕、書こうと思ったら1冊書けるかもしれないぐらい聞いてるからね。
田邊 是非それは読んでみたいですね。
内藤 子どもの頃からピアノの音が鳴ってたことは確かなんです。ずっと日常的に。ピアノの練習とかもやらされたりしたんだけど、なにせ物覚えが良くないからね。出来が悪いしこっちも嫌だし、それより外で遊びたいし、っていうので小学校の5年のときにやめちゃった。あのときやめなきゃよかったなと後になってすごく後悔してるんだけど。やっときゃよかった。それで、ちょうどその頃に親父が関西に転勤になって、親父の代わりっていうこともあって、中1の頃から月に1回か2回、コンサートに母親のエスコートでずっと行ってたんです。だから上野の文化会館、N響の定期講演会は中1の頃から行ってるし、今でも覚えてます。あそこ入っていって、文化会館のロビーを抜けて、ホールの大空間が広がるあの感じは鮮明に覚えている。そこで最初に聴いた曲も覚えてる。ショーソン(※)っていう作曲家の交響曲。それが、僕のリアルで聴いた最初の音楽会。それから、N響の定期演奏会っていうのも「いつも型どおりでつまんねえな」と思ってたら面白い事件があった。その日は尾高賞っていう現代音楽の賞を取った人の作品をN響が演奏したんだけど、どれも複雑難解でよく分からない。何曲目かに指揮者の岩城宏之(※)が演奏を始めて30秒ぐらいして止めちゃったんです。それまで何曲か、2曲ぐらいやってたんだけど、3曲目のときに30秒ぐらいしてやめちゃって。それでこっちの観客の方を向いて、「皆さん」って言うんです。「良いと思ったら拍手してください。良くないと思ったら別に拍手しなくてもいいです」って言って、もう一回向き直して最初からやった。
※ エルネスト・ショーソン:1855-1899, フランス, 作曲家
※ 岩城宏之:1932-2006, 指揮者, 打楽器奏者, プロデューサー
崎谷 ははあ。
内藤 つまり、コンサートで曲が終わるとみんな拍手するのが決まり事になってるじゃない。そういうのがきっと気に食わなかったんだよね。それは同感、よくないと思っているのに拍手をするのは欺瞞、芸術に対する冒涜だからね。それで演奏が終わって、ちょっと作曲者をとかって壇上に出てきたのが武満徹(※)。背が低くて痩せていて、宇宙人みたいな感じだった。そういうのは記憶としてありますね。いいのかな、こんな話してて。
※ 武満徹:1930-1996, 作曲家, 音楽プロデューサー
崎谷 いいですよ。お願いします。
内藤 一番感動したコンサートっていうのがあって、それは神奈川県立音楽堂でのこと。前川國男が設計したあそこにも月1回行っていたので、当時の来日したピアノその他のアーティストの演奏は、ほとんど聴いてるんです。大体高校3年か、大学の最初の頃まで聴いてるんですけど、非常に有名な人、ルビンシュタイン(※)。これは上野だったけど聴いてるし、リヒテル(※)も聴いてるし、デビューしたてのアルゲリッチ(※)も聴いてるし。だけど、その中でも一番感動したコンサートっていうのがあって。
※ アルトゥール・ルビンシュタイン:1887-1982,ポーランド生(旧ロシア帝国), ピアニスト
※ スヴャトスラフ・テオフィーロヴィチ・リヒテル:1915-, ウクライナ生(旧ソヴィエト), ピアニスト
※ マルタ・アルゲリッチ:1941-,アルゼンチン, ピアニスト
崎谷 ほほう。
内藤 当時、高校の部活で運動部のキャプテンだったんだけど、ともかく用事があるって言って途中で抜けて、いわばサボって。ひどい話だね。抜け出して電車に乗って、猛ダッシュで音楽堂に向かった。いつもギリギリ。音楽堂って桜木町駅で降りて紅葉坂って急な坂を全速力で走らないと間に合わないんだけど、ようやくたどり着いてホールに入ったら、観客は3分の1か4分の1ぐらいしか入ってないの。がらがらだった。「失敗したな、こんなコンサートのために」って思った。それはもちろん1人で行ったんですけど。
崎谷 一人で。高校時代の内藤廣が全力で坂を駆け上って。
内藤 そう。それで、そのときは歌曲でがらんとした舞台には、ピアノ1台とソプラノが1人。大柄なドイツ人の女性だった。まだ無名で、無名だから観客がほとんどいないんですよね。でもそうしたら、最初の一音から背筋がゾクっとするような感じがして、ともかく素晴らしかったんです。ホール全体が声で満たされていくような感じ。本当にいい音楽に接したときっていうのは、体が熱くなって、背筋がゾクゾクして、この一秒一秒が過ぎてほしくないって思うような感じがある。素晴らしい演奏だったんです。本当に感動した。それがグンドゥラ・ヤノヴィッツ(※)っていう歌手で、その公演から半年か1年後に、カラヤン(※)がベルリン・オペラのプリマに指名して一躍大スターになるんです。そういう体験っていうのはある。そういう体験全部が僕のものづくりとか空間とか考えるときに重なってくるっていうのはあるんです。コンサートホールを設計するときもそうだし、そうでなくても、ときたま脳裏に蘇る。
※ グンドゥラ・ヤノヴィッツ:1937-,ドイツ生, オーストリア, オペラ/コンサートのソプラノ歌手,
※ ヘルベルト・フォン・カラヤン:1908-1989,オーストリア, 指揮者
田邊 『建築の難問』(みすず書房, 2021)の中で、和解という言葉、分かち合うという話を書かれてましたけど、それと、そのコンサートの本当にうまくいったときというか、ある場ができるときって結構体験として似てるのかなと。
内藤 似てますよね。多分あらゆる芸術もそうなんだと思うんです。つまり結局のところコミュニケーションで、分かり合えるかどうか。それが悲しさっていうこともあるかもしれないし喜びっていうのもあるかもしれないけれど。舞台の上の人とそれを受け取る側が一緒になれるっていうか、本当に感動するときっていうのは一緒になれてるんだと思う。そこそこのときはそうでもないけど。…ていう感じですかね、音楽に関しては。
崎谷 なるほど。和解。
伊藤 凄まじいものを見てしまうと、たとえば自分の設計したものがそれを受け止め切れるものなのかと考えてしまいます。それで、背筋正さないとって。そのクオリティーと同じことを自分はできるのかみたいな問いが…
内藤 ありますよね。要は僕らの社会の中でどれだけそういう場所や時間をつくれるかっていうのが。もちろん建築単体でできるわけでもないし、それは都市である場合もあるかもしれないし、ランドスケープである場合もあるかもしれないけど、そうしたものを通して理解し合えていることを感じ合えるのが大事なんじゃないかなと思います。
伊藤 お若い頃にそういう感動した体験としては、音楽が多かったですか?
内藤 音楽が多かったですね。僕はそっちタイプなのかもしれないね。さっきのフェリス・グランデの詩もそうだけど、音楽的なものっていうのは必須条件なんだと思う。
伊藤 ははあ。
内藤 いやだけど、めちゃくちゃですよ、僕(笑)。音楽に関しては。小田切は知ってますけど、原稿書きながらいろんな音楽流してるんです、自宅でも所長室でも。ポップスの場合もあればクラシックの場合もあれば、ジャズの場合もあれば、タンゴの場合もあるし。ぐじゃぐじゃ。歌謡曲の場合もあるし、ときたま長渕(※)とかも流してて(笑)。
※ 長渕剛:1956-,シンガーソングライター,俳優
崎谷 ちょっと文章が荒々しくなったりして(笑)。

内藤さんの事務所所長室
提供:内藤廣建築設計事務所
内藤 どういうときなのかね、あれ(笑)。気分として何か…
崎谷 自分で選曲してるんですか? それとも小田切さんが?
小田切 いえ、自分で流してますね。ピアノ協奏曲がかかっているかと思えば、今日は長渕だって(笑)。
内藤 なんか、長渕のときはね、もうコンペ負け続きで仕事もねえなとかってなって、そんなヤケクソの時は長渕。なんだっけあれ? お金をくだせぇ、仕事をくだせぇ (笑)。そういう感じです(笑)。
崎谷 (笑)。
伊藤 僕は普段長渕さんの曲を聴かないですけど、すごい心が疲れているときのお酒を飲んだ帰り、つーっと涙が流れてきたことがありますね。聞いてたら、なにかこう…
内藤 いや、いいっすよ、あれ(笑)。あいつね、命懸けでやってるし。あの感じの在り方がちょっと他とは違うなとは思う。こいつ命懸けでやってるっていうのは分かるし。
伊藤 実弾こめてますよね。
内藤 うん、そう。
崎谷 長渕にしかできない。長渕でしか回収できないですよ(笑)。
内藤 まあ、ちょっと右に行き過ぎじゃねえかとか思うときもあるけどさ(笑)。
伊藤 ありますね(笑)。大和のときとか。
内藤 そうそう(笑)。
崎谷 長渕の話になっちゃった(笑)。でも、そろそろ時間が長くなってきちゃいましたね。それこそ、過ぎて欲しくない時間という感じでしたけど。
内藤 いやあ、お役に立てれば。もう年寄りですから。
崎谷 いえいえ。
内藤 『土景』はね、僕が思うに、自由にやったら良いんですよ。僕とか篠原さん(※)のこと気にしないでさ。
※ 篠原修:1945-, 東京大学名誉教授, 景観デザイン, 土木設計論, 土木計画思想史, GSデザイン会議代表
崎谷 はい。
内藤 自由にやったら良いすよ、本当に。アドバイスとしては、ある程度の年数で区切ってやった方が良いってことかな。それを繰り返していけば良いので。
崎谷 そうですね。まずは、2023年を目がけて。それまでは自由に走り抜けてみようと思います。
内藤 うんうん。そういう感じの方が、気持ちが楽だよ。GSも同様です。
崎谷 『土景』とGS、どう併走させて行こうかとか考えているんですけど。
内藤 うーん…。
崎谷 土景は、GSのやってきたことを引き継いで、次世代に展開していくものだという想いもあるんですが。
内藤 イメージとしては分かるけどね。ただ、GSはね、やっぱり観念的なんですよ。篠原先生を中心に、形而上学的、上部構造的なんですね。それで要するに、ポリティカルな話とかパブリックな話とか、そういうものに向き合うわけだけど。そういう意味では、『土景』はどちらかというとボディの話なので。GSは観念的でアブストラクト、単なる想像で言うけど、『土景』でやろうとしているのはボディで具体的なものなんじゃないかな。
崎谷 はい、なるほど。
内藤 そんなんでいうとさ、そもそも“土”っていうのは何だろうって、僕もちょっと考えた。それで、白川静さん(※)の『字統』(平凡社, 1984)で見てみたんだけどさ。もともと、土って、(机に指で描きながら)こういう字だったんですよ。象形文字でいうと、ひし形みたいなものの下に、横棒が一本。それって何だろうっていうと、白川さんによると、土を練って、なんていうのか、祈祷のような意で板の上に置いたらしい。こう、ボンと。その形が“土”っていうことらしいんだ。
※ 白川静:1910-2006, 立命館大学 名誉教授, 漢文学者, 東洋学者

土のかたちの成り立ち(白川静『常用字解』(平凡社, 2003)p,473より)
崎谷 ほう。
内藤 その形っていうのは、ある種、祈りの問題がそこにあるんだ。つまり、どっかそこらへんから土をこう引っ張ってきて、それに何か込めるんだね。そして、それを置く。だから、土という言葉の意味自体をさ、考えるっていうのはアリだなと思った。
崎谷 なるほど…。ありがとうございます(笑)。
内藤 (笑)。
崎谷 「くそ~」って感じです(笑)。
内藤 ははは(笑)。
崎谷&田邊&伊藤 ありがとうございました。
内藤 ありがとうございました。
(了)