Emi Evans(エミ・エヴァンス)さんは、今日様々な国際的プロジェクトに参加し活躍する音楽家・歌手である。数多くのTVCMのほか、世界的に人気を博するゲーム『NieR』シリーズや『DARK SOULS』、スター・ウォーズ最新作の『Star Wars:Visions』、現在放送中のNHK連続ドラマ『ちむどんどん』など、国内外の多種多様な作品に参加してきた。
今回のインタビューでは、英日ハーフである彼女から、文化・言語・風景などを切り口として、その独創的な表現手法とその制作秘話、歌に込められた想いを聞き、また彼女自身の原体験と未来について語ってもらった。
「録音が終わったら本当に旅から、いい旅から帰ってきたみたいな気持ちになりますね」
――現実と架空の、過去と未来の、ローカルとグローバルのさまざまな世界観を表現してきた彼女のクリエイションを、その半生とともに紐解いていく。
伊藤 エミさんは『DARK SOULS』(ダークソウル)や『NieR』(ニーア)のシリーズなど国際的に大人気なゲームの楽曲に参加したり、またスターウォーズの最新作『StarWars:Visions』や、NHKの朝ドラ『ちむどんどん』などの挿入歌でもボーカルを務めるなど、本当にさまざまなところで活躍されていますね。その活動のヴァリエーションもさることながら、一貫して、不思議な世界観も表現されています。世界的に有名な楽曲にもたくさん参加されているかと思いますが、まずは今までの音楽のキャリアについてお聞きしたいです。これまで、どのように音楽の道を歩まれてきたんですか?
エヴァンス 最初、日本に留学生として来た話もあるし、それから歌手としてしていた仕事の話もあるから、少し話が長くなりますが…大丈夫ですか?
伊藤 はい、大丈夫ですよ。
エヴァンス 小さい頃から音楽が大好きで、ずっとチェロを弾いてたんです。


庭でチェロを弾いていたエミさん
エヴァンス 当時は別に歌にはそれほど自信がなくて――教会のコーラスを歌っていたりもしましたけど、どちらかというとチェロの方をやっていました。でも、だんだんチェロの練習が厳しくなってきて、練習が飽きたときや苦しいときに、歌で発散し始めるようになったんです。歌は、すごい自分を癒やしてくれるんですね。自分をリラックスさせるために、ピアノを弾きながら好きな歌をうたったり、自分でちょっと作曲してみたりとかもできる。それでも、自分の声にはぜんぜん自信がなかったから、ずっとチェリストになろうと思っていたんだけど、15歳のときに皆がギターを弾いたり、バンドを始めたりしていて、バンドにはすごいかっこいいイメージを持つようになって…。
伊藤 ちょうど思春期の真っ只中という時期で?
エヴァンス そうです。だから、私も友達3人と一緒にバンドを始めてみたんです。


ギターの演奏を始めた頃
エヴァンス けれど、最初のライブで、もう全然駄目だったんですよね。それで、ちょっと落ち込んでしまいました。けど、そのときに母が――そのときはイギリスに住んでいたんですけど――イギリスに住んでいる日本人向けの雑誌で、「日本人のプロデューサーが、日本でリリースするための歌手を探しているから、興味のある人はこちらへデモを送ってください」という掲載を見つけてくれたんです。そのとき、自分も、少しピアノで作曲したりしていたし、母は、私がちょうどバンドを解散して落ち込んでいるから、「これやってみたら?」と薦めてくれて、それで3曲ぐらい自分の作曲をカセットで録音して送ったら選ばれたんです。それが16歳のときでした。
伊藤 おお、そうなんですね。

自分で作曲した曲をピアノで演奏し、唄っていた
エヴァンス そのプロデューサーは、CHARAさんのアルバム制作とかに関わっている人で。
伊藤 日本人の女性アーティストのCHARAさん?
エヴァンス そう。
伊藤 すごいですね。じゃあ、その時、すでに有名な人と繋がれたという感じなんですか?
エヴァンス ソニーの関係する小さい会社だったけど、音楽業界には深い方でした。東京とロンドンを行き来している人だったから、わざわざ家まで来てくれて、いろいろ話もして、そのときに自分も歌手になれるかもしれないという自信が付いてきたんです。それで、ずっとプロデューサーと作曲したデモのやりとりなどを続けていて。でも、最初は、日本ですぐリリースさせるような話だったけれど、「エミは自分の作曲ができるから、もうちょっとアーティストとして成熟してから出したほうが良いんじゃないか」って、そのプロデューサーから提案されて。
伊藤 単なる歌手ではなくて、全部を作るアーティストとして、という意味ですか?
エヴァンス そうです。それが16歳のときですね。だから、「もうちょっと成長するまで様子を見ましょう。学校を卒業して、もう少し人生の経験をしてからリリースしてみませんか?」という話になりました。その後も、そのプロデューサーとはずっと連絡を取り合いながら、作曲したデモのカセットをいっぱい送っていました。それから、留学生として日本に来たんです。
伊藤 イギリスだと高校卒業するのは18歳でしたよね? 留学する前は、イギリスでも大学に?
エヴァンス 18歳です。イギリスでは、北の方にあるLeeds大学というところで、日本語とフランス語の勉強をしていました。それで、2年生のときに、学生はいろんな大学で1年間留学するプログラムがあったんです。
伊藤 では、はじめはExchange student(交換留学生)として来たんですね。
エヴァンス That's right.
伊藤 留学は、音大のようなところに?
エヴァンス 私は学習院女子大学に1年間行きました。実は、音楽に関して、ずっとチェリストになりたかったけど、だんだんプロフェッショナル・チェリストとして仕事するのがすごい大変と分かってきて、クラシックの世界で苦しくなってしまったんです。そのぶん、自分がピアノ弾いて歌うのは、自由に気持ちを伝えることができるし、すごく好きになっていて、むしろクラシックのチェロの方が縛られるというか、自分の表現活動が限られる感じがしてくるようになりました。だから、音楽を続けていましたが、音楽の専門の大学には行かないで、もともと母がしゃべっている言葉をもっと上手に話したいから、東京に来て日本語を覚えようと思って、こっちに来たんです。
伊藤 では、日本では言語を勉強しようと?
エヴァンス そう。母は日本人なんです。でも、小さい頃から、家では英語で会話をしていたので、当時の私は日本語を喋ることはできませんでした。母の母国だから興味があったし、その言葉を自分も話せるようになりたかったんです。学習院では日本文化の授業もとったりしていて、たとえば十二単の着付けを覚えたりもしました。
伊藤 なるほど、そうだったんですね。
エヴァンス そうなんです。

日本に来たばかりの頃
当時はほとんど日本語が喋れず、自己紹介の代わりにギターを弾き、自分の作曲した音楽を唄っていたという

母親の母国の文化に触れる
エヴァンス その間に、さっきのプロデューサーの方も東京に住んでいたので、また直接会うようになりました。そうしたら、「僕と仕事しているアレンジャーがいるのだけど、その彼が、僕に送ってくれたエミのカセットを勝手に聴いて、アレンジをやっているみたい。何か感じてやり始めたようだから、せっかくだから紹介したい。」と言われたんです。それで紹介してくれたのがヒロさん(※)という人で、その後にfreesscape(フリースケープ)(※)のパートナーになる人でした。それが20歳のときでした。
※ Hiroyuki Muneta:freesscapeパートナー, 音楽家, アレンジャー, コンポーザー、ベーシスト
※ freesscape:Hiroyuki MuentaとEmi Evansによる音楽ユニット
伊藤 なるほど。
エヴァンス それで、ヒロさんといろんな曲をやり始めて、すごく良いChemistry(=化学反応)があって、お互いインスピレーションが合ったんです。そのプロデューサーは、もうひとり別の、ソニーのプロデューサーも紹介してくれて、そこから「ちょっとリリースしてみようか?」という話が出てきました。
伊藤 すごい、良い調子で進んだ感じですね。
エヴァンス そう。でも、そのとき、ちょうど私がイギリスの大学に戻らなければいけないタイミングでした。けど、せっかくのチャンスと思って。だから、1年間休学することにして。
伊藤 日本に残ることにしたんですね。
エヴァンス そうなんです。いろいろ挑戦してみて、駄目だったら大学に戻ることにして。そのときはバンドの形にして、ヒロさんはベースと歌のアレンジをやって、他の2人のメンバーとしてギタリスト、ドラマーがいました。そして、ヒロさんとずっと曲を作っていた感じですね。
伊藤 4ピースバンド。
エヴァンス そうです。

当時組んでいたバンドMorphic

自分達の手で制作した初めてのdemoシングル(写真はヒロさんと)
エヴァンス それで、バンドをやりながら、仕事とかバイトしないといけないし、大学からも、ちょっと贅沢だった寮からも離れて、外国人向けのシェアハウスに住むようになりました。けれど、英会話の先生は絶対なりたくないと思って…(笑)。
伊藤 確かに、バイトや一時凌ぎとして、英語の先生をやる人は多いイメージがありますね。
エヴァンス そう。でも、それは当たり前過ぎて嫌だと思いました。だから、歌だけで頑張ってみようと思って仕事を探して、そうしたら結婚式で歌う仕事ができると聞いたんです。
伊藤 結婚式場で唄う仕事だと、ゴスペルとかですか?
エヴァンス そうです。聖歌隊みたいなね。ちょっとクラシックで。あとは、東京ドームホテルで、女性3人で唄うコーラスの仕事をしたり、そういう仕事を週末やり始めるようになって。

音楽で生活をするために始めたコーラスの仕事
伊藤 その頃にもう既に、仕事は音楽オンリーという感じにしたんですね。
エヴァンス そう。そのやり方で頑張ってみたいと思っていたんです。
伊藤 21歳の頃ですか?
エヴァンス そう。若くて、夢が大きくて、音楽だけでやってみよう、貧乏でも音楽の生活をしたいと。
伊藤 すごい根性がありますよね。当時のバンドの活動自体はどうでしたか?
エヴァンス バンドを始めてから1年ぐらい経ったときに、その16歳から付き添ってくれていたプロデューサーとの間に価値観の違いが出てくるようになってしまったんです…。それで、ヒロさんと2人だけで、自分たちが作りたい音楽の方向を目指すことにしました。そのプロデューサーは、彼自身の考えがあって、売れるための曲をつくらなければいけないこともあり、自分たちのやりたい方向とは違い過ぎたので。
伊藤 ああ…、そういうこともありますよね。
エヴァンス しょうがないと思いました。そのときは多分、日本ではカントリーウエスタンをアレンジしたような音楽ジャンルが流行っていて、自分とは全然違う感じがしました。一緒に録音を試したときに「カントリーウエスタン風にしなさい」、「こういうふうに歌って」と何度も言われたりして、それが少し辛かったですね。
伊藤 状況は違えど、チェロのときと同様に、やはり制限された中で、プレッシャーでやっているみたいな感じだったんですね。自分がやりたいことじゃないというか。
エヴァンス そうです。自分じゃないことを出そうとするのが、すごい気持ち悪くて、「このままでは、もう続けられない」となりました。だから、大変だろうけど、インデペンデントになって、自分が作りたい音楽を作る。それが作れないと意味がない。だから、そのプロデューサーは夢に向かっていくための、いろいろなチャンスをくれた人で感謝もしていましたけど、そこからは離れて、私とヒロさんと、あと関わってくれていた他のメンバーや関係者たちと独立したんです。
伊藤 おお。
エヴァンス それで、そのときに結局、大学も辞めることにしました。本当に音楽の世界は厳しくて大変と分かったけど、それが良い機会にもなりました。そういうことがあっても、それでもやりたいと思えたから、もう怖いことがなくなったんです。むしろ、もっと音楽に対する気持ちが強くなって、自分の中の一番やりたいことが確認できました。いくら辛くても、自分の好きな音楽を作れることが、あまりにも気持ちよくて、意味のあることだからやり続けたいと。
伊藤 そして、日本に残って、バンド活動は続けることにしたんですね。
エヴァンス そうです。大学を辞めて、音楽の仕事をさらに少しずつ増やしていきました。教会のコーラスもやりましたし、ホテルラウンジで歌える仕事もありました。それでジャズの曲や、フランス語のシャンソンの曲、ポルトガル語のボサノヴァの曲など、いろんな種類の曲にも挑戦してみて、ちょっとずつ覚えていって、いろんな所で歌えるようになったんです。

仕事を通していろいろなステージに立ち、様々な音楽に触れていた
伊藤 その時期は勉強にもなったし、仕事としてステージにも立てたんですね。
エヴァンス そうですね。そして、いろんなエージェンシーに登録して、TVCMの音楽にも仕事で関われるようになって。
伊藤 おお、急展開ですね。例えば、どのようなCMに?
エヴァンス DENSOのCMで『アメイジング・グレイス』を歌ったり、堀北真希さんが出演されていたいち髪シャンプーのCMでフランス語で歌ったりとか…
伊藤 おお!では、僕らは気づかない間に、エミさんの声を聴いている可能性が高いですね。
エヴァンス 多分、聴いていると思います(笑)。たとえば、パナソニックのVieraのCMわかりますか? 滝川クリステルさんが出ていたものですが、それもフランス語でCM曲を歌っていて、それは街中とか駅にある大きなディスプレイなどでも流れていたので、本当になにげなく聞いていると思います。
伊藤 そうですか(笑)。本当に、かなりの頻度で聞いているかもしれませんね。
エヴァンス そういう仕事を始めたのがもう20年前かな。そのときは、テレビの挿入歌とか、もういろんな仕事をして歌ってきました。本当にちょっとずつ、いろいろ。パーティーのイベントとかで、全然違うジャンルの音楽だけど、ポップスのヒット曲をカバーして、マドンナとかも歌いましたし、元気なバンドでノリノリのホテルパーティーのイベントとかも、もう本当に何でもやりました。そういう仕事をやりながら、バンドも続けていて。ただ、バンドの方は、だんだん私とヒロさんの作りたい音楽が絞られてきて、「もう少しエレクトロニックとか、生っぽい音をミックスしてやりたいね」と、方向性が明確になってきていました。また、そう考えていた時期に、メンバーのギタリストが腕を骨折してしまい、その彼がバンドを辞めると言ったこともあり話し合う機会になったんです。そこから私とヒロさんだけになって、それまでのバンドサウンドがほとんど無くなり、エレクトロニックとオーガニックの音を混ぜたような音楽を作るようになっていきました。
伊藤 それがfreesscapeの始まりですか?
エヴァンス そうです。それが、たしか23歳のときですね。
伊藤 2~3年で色々なことがありましたね。
エヴァンス そうですね。あと、バンドを始めた頃は、もともと私がアラニス・モリセットとかチリーズとか、ちょっとうるさい歌手に憧れをもっていて、その真似をしようとしていたんです。というのは、やっぱりライブハウスでバンド演奏をやるとき、本当に大きい声で歌わないと負けてしまうから。だから、ずっと強い声を出すような歌い方をしていました。
伊藤 今のイメージとは、かなり違いますね。
エヴァンス それで、一度、すごい喉を潰してしまって2カ月間ぐらい声が全然出なくなってしまったんです。それで、これはちょっと、もう歌い方を考え直さないと声が駄目になると。だから、もうちょっとソフトで、何でしょう…
伊藤 内面的というか?
エヴァンス そう。内面的な歌い方をするようになりました。あと、音のパワーより、Emotion(=感情)のパワーで表現する方向になりました。自分が目立って、かっこよく見せるような歌手じゃなくて、優しい感じ、癒やし系の感じで、人の気持ちに優しく届くような歌手のイメージが、だんだん付いてきて。だから、すごく自然な流れでそうなった感じですね。
伊藤 freesscape(フリーススケープ)の音楽性の方向が定まってきたときに、同時にエミさんの歌い方も変化して、今のスタイルに近づいてきたということですね。
エヴァンス そうなんです。
伊藤 それが23歳ぐらいですから、けっこう早い段階から、今のスタイルに近いことを始めていたんですね。
エヴァンス そうなんですよ。それで、そのとき、freesscapeの活動から、いろんなプロデューサーと知り合って、アルバムを作ってもらうこともできました、ユニバーサル・ミュージックに関連していたプロデューサーが、私たちの音楽をすごい気に入ってくれて、アルバムを全部レコーティングさせてくれたんです。全て無料で、すごいきれいなスタジオで。自分たちなら絶対できない所。
伊藤 おお。セットと環境が最高だった?
エヴァンス Yes。素晴らしい環境で、素晴らしいエンジニアがずっと付いてて、録らせてくれました。リリース自体は自分たちでやるということになったけど、全部権利とかも持っていて良いと。
伊藤 すごい良い話ですね。
エヴァンス そう。そのとき一緒にやっていたエンジニアが、その後もすごい応援してくれて、「2つ目のアルバムも僕の空いている時間にスタジオに来てくれたら、僕が全部録ってあげる」と言ってくれて、すごい優しくしてくれた。
伊藤 それらのアルバムは?
エヴァンス 1stアルバムは、『Fragile Perfection』という名前で、それがユニバーサル・ミュージックのプロデューサーが録らせてくれたものです。2ndアルバムは『The Next Confusion』。そっちの方は、その優しいエンジニアの方が、空いている時間にその素敵なスタジオを使って、また録ってくれたものです。

『fragile perfection』のアルバム・アートワーク

『Next Confusion』のアルバム・アートワーク
このアートワークに使用されている絵ははエミさんが制作した
伊藤 YouTubeにも上がっているやつですね。
エヴァンス Yes。それから3枚目のアルバムは、エンジニアと録ったり、あと今住んでいる家の洞窟みたいな地下の部屋でも録ったりしました。
伊藤 おお、あの地下室ですか!(※ Emiさんと伊藤は、同じ建物の隣人。)
エヴァンス そうです(笑)。
伊藤 あそこ、Echo(=反響音)がすごくないですか?
エヴァンス でも、録音用にいっぱいクッションを付けてるから(笑)。
伊藤 吸音材? でも、僕は、たまに外から聞こえてくるEmiさんの歌声が好きで、わざと窓を開けたりしていますよ(笑)。
エヴァンス そう? それは嬉しいですね(笑)。

自宅の地下室を利用したレコーディングスペース
<次編: vol.2『幻想の世界に命を吹き込む歌』 >