NO.68
原広司 vol.4 『想像と創造:花も紅葉もなかりけり』
INTERVIEW
2023/03/16 14:18
20世紀を代表する世界的な建築家・原広司さん。
その建築作品は国内外を問わず高く評価されており、代表作はJR京都駅、大阪梅田スカイビル、札幌ドームなど、誰もが一度は見聞きし、訪れているだろう建物である。しかし、その作品の規模・形態・機能の多様性は凄まじく、おそらく日本でもっとも様々なタイプの施設を設計した建築家でもある。原さんの建築はグローバルでもあり、ローカルでもあるという、二つの事象が同時に観測される。そして、その空間は、時間や環境の変化に対して、実に多様に展開することも特徴である。
また、その一方で、原さんは言葉の人でもある。1960年代からこれまでに様々な著作・論文を通じて、建築界に大きな影響を与えてきた。その言説は、数学や物理学、芸術と音楽、思想哲学、歴史、宗教などの垣根を易々と超え、かつ独自の視点で結びついている。
今回のインタビューでは、そんな原さんがどこで生まれ、何を体験し、何故そのようになったのか、という素朴な疑問を、我々の問題意識と結びつけながら質問した。また、戦後の20世紀という濃密な時代を、建築家・思想家として、どのように捉え、駆け抜けたのかについても語ってくれた。
屈指の名インタビューとなったことを確信している。
戦災と飢餓を生き抜き、世界中を旅してきた巨人が、いま自身の人生について口を開いてくれた。
我々もまた、神に代わる、武力に代わる、新たなフィクショナリティーを求めて旅に出よう。
伊藤 さきほど資本主義の強さみたいな話がありましたけど、一つ思うのは、原先生が仰っている“均質空間”、ミース(※32)がつくったユニバーサルスペースという考え方――オフィス建築の基みたいな考え方が非常に分かりやすいんだと思います。まず、パラメーターが分かりやすい。そして目的が分かりやすい。機能は何でも入れていい。そういう、あの図式に、みんながすがってしまうのは、その分かりやすさがもうどうしようもないというか。
原 うん。そういうことね。
伊藤 そこから、もう分かりにくいところに戻れなくなってしまっているんじゃないか、と。
原 だから、そのとおりなんだよね。だけど、怪しいんじゃないのって思うのね。僕はね。根本的に思うのよ。
伊藤 その在り方自体に対する問いを投げかけるが必要がありますね。問いをきれいに立てることができれば、議論はできるだろうという気はするんですが。この、“きれいに立てる”ということが難しい。下手に立てても、こう、自分の中の資本主義に迎撃されていくんですね(笑)。
原 うん(笑)。
伊藤 ただ、みんながそういうことを考えるきっかけはいろいろあるなと思っていて。たとえば、風景とか街づくりのことに関わっていても、そういう均質空間――ミースのユニバーサルスペースを体現したような建物が、あらゆる土地に蔓延していったときに「なにか違うんじゃないか?」というようなことは誰しも思っていて。ただ、その違和感の正体が一体、何なのかっていうところに対してのクリティカルな問いが出せずにもがいている。それが、おそらく今、風景とかに関わっている人たちの違和感といいますか。
原 そう。違和感がある。だから、僕はこういうようにですよ、たとえば、日本の、定家(※33:藤原定家)が出した「秋の夕暮れ」があるわけじゃない。僕の文章が国語のセンター試験の問題にも出たけどもさ、その第1回かなんかの(笑)。
伊藤 ああ、センター試験に出されたというのが、ありましたね(笑)。
原 そう(笑)。それと全く変わっていないんだけどさ。要するに、秋の夕暮れっていうときに、「花も紅葉も なかりけり」っていったときに、花もあるし、花もないしというふうに解釈しないと、なんであの歌がそんなにいいのか――つまり、二重映しってあるわけじゃないですか。だから、あるとないとが、同時に見える世界っていうのがすごいんじゃないかなと言ったわけです。
伊藤 はい。

藤原定家(1162-1241)の肖像画
『伝藤原信実筆 』(鎌倉時代)より
(原文)
見渡せば花も紅葉もなかりけり
浦の苫屋の秋の夕暮れ
『新古今和歌集』(鎌倉時代初期)より
原 そこのところから、普通の日常生活のときには、どうするのっていうのか。それはつまり、「こういうときには二重に見えているし、そうでないときもある」という面で、演算子のオペレーターの組み方じゃないかと思うんですね。そういう状態をもっと複雑に組み上げていって、このときはこう、あのときはああだと言う。あるいは、これはきっと相当正しいんじゃないかと思っているのは、例えば、人間は複素数っていう概念をつくったわけじゃない。複素数は、非現実的な部分と現実的な部分を、イマジナリーなものとリアルなものとを、同時に話せる数字を考えたわけ。
伊藤 なるほど。
原 たとえば、環境をつくる。ある谷が見えたときには、その谷は本当の形と、そうでないイマジナリーな形が同時に見えているというようなことがある。つまり、それが複素多様体という形で分かっていないと、新しい理解はできないだろうと考えられる。だから、そういうものがあるんじゃないかと思う。ところが複素多様体と言っても、全然まだ人間をめぐる解釈にはいたってないわけです。
伊藤 それは数学的に?
原 いや、数学的にじゃなしに、建築的に実在するものとして、まだきちんと分かっていないわけ。
伊藤 実際に、それが何なのかってことですか?
原 そう。だから、たとえば、そういう二つのもの――すなわちリアルとイマジナリーなことを表現するのは、どうしたらいいのかを、一つ一つ丹念に積み重ねて造らなくてはならないとね。
伊藤 はい。
原 こうした想像力をめぐる二重性を、例えば、T.S.エリオットは、すでに1922年のコラージュの詩『荒地(原題:The Waste Land)』において、”アンリアル・シティ(原文:Unreal City)”と表現した。この概念については、エリオット自身によって注記があるんだけれど、そこには、ボードレールの『悪の華』によって示唆されたと書かれていて、その意味するところは、「ボードレールは、大勢の人々が、(都市に集ってきて)亡霊のように現れる、まことに、信じられない現象が生起している状態。それを”アンリアル・シティ”という言葉で表現した」という説明です。この言葉は、たいへん重要で、リアルとイマジナリーを重ね合わせているんですよ。
伊藤 ”アンリアル・シティ”。
原 現実の都市の変容は、ボードレールや、エリオットが考えたところ――すなわち、都市人口の増加は、彼らの想像力を超えた、とんでもない変容であった。つまり、20世紀の間に、世界の人口は4倍になってしまった。ここでは、「パリのボードレールと、ロンドンのT.S.エリオット、その二人の心配、不安が妥当であった」という解釈くらいで話を留めておかなくてはならないでしょうが、”アンリアル”という言葉が、現実の事態と、想像力の”二重写し”になっていたことが重要なわけです。
伊藤 わかります。
原 この、”二重写し”をどう把握すればよいのか、が課題なのです。そして、この事態を、たとえば、数学では、複素数という世界を切り開いているという事実があるのだから――これはひとつの比喩的な例に過ぎないけど――参考になるのではないか、と私は考えて、あれこれと思索するのですが、うまい解答を見出すことができない。だから、若い人たちに考えて欲しい、と指摘するわけです。
伊藤 はい。
原 だからと言って、私自身が思考を止めるわけではなく、絶えず思考の道すじを開拓しようとしている。この際、課題は容易でないから、一歩一歩着実に進めなくてはならない。そして、それは遠い道のりであることを互いに認識して、焦らないで進めなくてはならないだろうと思う。ここでは、ほんの短い対話に過ぎないから、人間の認識と想像力を検討して考えようとする、方向性をめぐる、とめどもない発信に終わってしまうが、ひとつはっきりしているのは、知的思考を放棄してはならない、自滅の道ではなく、生きのびるための道を探求しなくてはならない、ということです。
伊藤 はい。
原 (…しばらく思案して)それで、”二重写し”の話に戻るんだけども、それは、僕は“記号場”だと思うんですよ。
伊藤 “記号場”?
原 そういう概念を出すんですね。”記号場”という概念をずっと言ってきている。この考え方を、ちょっと説明すると、「建築という行為は、(ものである)記号を空間のなかに位置づける行為である」と。この考え方は、パロール(話し言葉)が時間のなかに――原則的には1次元の空間のなかに――文法という秩序に応じて、記号である単語を並べ、位置づけることと似ています。
伊藤 はい、たしかに。
原 現時点でも記号という概念は、最も重要な手がかりで、私は、大江健三郎の小説を分析したとき、まず”記号的な場所”という概念に辿りついた。つまり、大江健三郎は、30くらいの”記号的な場所”を拠り所にして物語を展開しているんですね。彼は、「四国の森の谷」という舞台を設定して、その都度それぞれの小説を書いている。これは極めて重要な設定で、登場人物も同じだったりする。これは、同様な、あるいは類似した舞台の上で、その都度、特性のある出来事が演じられる。という小説の形態で、たいへん演劇的な構造といえます。
伊藤 本当ですね。
原 そう。それで、実は、建築も同様な構造をもっているのではないか。建築は実在の世界だから、文学とは異なった世界だと思われがちだけど、想像力に関しては、文学の世界と類似しているんだと。大江健三郎は、小説の中の演劇という方法をとっているけれど、つまり、現実(小説)と、虚構(演劇)とを重ね合わせているのです。
伊藤 なるほど。
原 結論を急げば、”記号的な場所”は、より広い”記号場”から導かれる。そして、実は、言語も”記号場”の原型ではないかと考えようとするわけです。早い話が、「”記号場”によって、言葉と風景あるいは建築は、同質であるのではないか」と考えるわけです。
伊藤 ははあ。
原 たとえば、情景図式がこうあるでしょう。それは、私はサルトルの課題を引き継いだと思っているんだけど。サルトルは、「ピエールはカフェにいるか?」という単純な文章で問いかけた。それがどこかにあったと思うんだけど、探してもちっとも見つけられないんだけども(笑)。それは想像力の問題として出すわけですね。1937年、ちょうど僕が生まれた頃に。
伊藤 「ピエールはカフェにいるか?」。
原 そう。これについては、私は、エリオットの”アンリアル・シティ”と同じようにすごい問題だと思う。何故、ピエールがカフェにいるかどうかが解るのだろうか。この問題には答えなくちゃいけないんじゃないかと思ったんですね。でも、サルトルは記号を扱うときに、記号を本気になって追わなかったんですね。それで、彼はもっと内的なプルソワ/アンソワっていう二つの図式の、二つの現象の中から、そういうものの存在の本質を見いだそうというアプローチに変えてしまっているのね。イメージっていうのを追わないで。だけど、私はそのイメージを追うことは、ものすごい重要であると思った。人間の意識においてね。たとえば、私が母親の顔を思い浮かべるっていうと、自分の母親を思い出すわけ。それは記号の最も根本的な問題なんです。そして、記号のそういう問題から始まって、たとえば、「記号の背景とは何か?」っていうような問題の立て方をするわけ。僕にとって、記号の一番の背景っていうのには、母親の背景がある。それを僕はD0(ディー・ゼロ)っていう名称をつけているんだけども。

御家族の写真(1952)
原さんの記憶の奥底に、"D₀"としてのお母さまのイメージが強く存在しているという。
伊藤 記号の一番の背景。
原 うん。そういう問題ね。僕はその頃に非常に努力したんだけど――いや、非常には努力できなかったけれども、この程度は分かって、こういうふうにやっていくと世界が見えてくるんじゃないのかなっていうさ、そういうことの準備はしたわけですよ。それは、あなた方に頑張って考えてもらうより仕方がない(笑)。
伊藤 次の世代へ繋いでいく準備をしたわけですね。
原 そう。こう行けばいい道がありますよって。だけど、そういうこと言うには、ちょっと言語が足りな過ぎると。科学になっていないと。だったら、科学に近づけなくちゃいけないから、そのために一つ一つ、こうだろうか、ああだろうかっていうので、たとえば“記号場”っていうのはどうかとかね。それに基づいて“マイクロ・デュレーション”(英:micro-duration)という概念もどうかと提出するわけですよ。デュレーションっていうのは、持続です。だから、”マイクロ・デュレーション”というのも、単純な話なんだけどさ。僕は、数学的な内容を示したんじゃない、単に表記法を示したんです。表記法を示したのは何故かというと、建築はものとして考えていたら、きっと駄目です。出来事、現象として考えなくてはいけないと。そうしないと統一した記述ができないと。
伊藤 はい。
原 それで、ここでは、サルトルが示したように、フッサールの「意識とは、何かについての意識である」が指針となるわけです。ものを記号に変換しておかないと、つまり出来事、現象に変換しておかないと、風景とか情景とかを、空気の温度や湿度と同時に記述することはできない。もので頑張ろうとするのは、ほとんど無理ではないか。「ものであると同時に、記号である」とする手続き、つまり事態を現象として捉えないと、記述は難しいのではないかと。私が提起してきた様々な概念や記述方法――それは言い換えれば、私の建築の内容になると思っているけれど――それは、そうしうた把握のための準備なんですね。
伊藤 なるほど。
原 ”マイクロ・デュレーション”は、マイクロ・クライメイト(英:micro-climate) や、マイクロ・トポグラフィ(英:micro-topography)という言葉に合わせていますが、出来事については、(時間を重要なパラメーターとしているから)さしあたりの統合的であるという意味をもっているんですね。この場合、”マイクロ”は、単純に、「小さい」という意味ではないから、別な表現を採用しても一向に構わないけれど。意味の上からすると、小さいというより、「局所的」という意味であって、かつそこには「遠くへ延びていく」という意味がこめられており、「ローカル(英:local)」、「ネイバーフッド(英:neighbourhood:近傍)」という位相幾何学の意味が込められている。さらに、「可能態である」という「様相」を取り込もうとしている。比喩的には、常に、「本質」ではなく、本質の「まわり」、「あたり」を言おうとしている。
伊藤 記号と空間を重ね合わせる”記号場”と、持続と統合の”マイクロ・デュレーション”。
原 まあ、このところは、私も十分に解っているわけではなくて、自分が配慮すべきところくらいしか説明できませんが。でも、イメージの問題――つまり、母の顔とかそういうものから、全ての手札とか道具だとかを、全部そろえなくちゃいけないんだから。

『新建築』2018年6月号
雑誌内の「建築論壇」にて原広司著『ランドスケープあるいは〈情景図式〉の構造, そして建築のマイクロデュレーション』が掲載。
表紙画像は、新建築社の公式HPアーカイブより。
原 分かんないんだけども、記憶が導く図式の法則性を私は探そうと思って。それで一つくらいかな、肝心の法則性は探したんだ。だから、風景なら風景のね、何か実際の原型っていうのをどういうふうに測ったらいいのかっていうようなことをね。
伊藤 その道具として、数学もなりうると。
原 そう。それが何かっていうのは、よく分かんないんだけど。でも、数学は黙って、数学の世界にこもってから200年ぐらいたつけどさ、数学者たちって考えてきたし、今も考え続けているね。彼らは一生懸命に考えている。だから、彼らが一番、信用できると僕は思っている理由ね。彼らは黙って考えたんだ。具体的には僕は松本幸夫(※34)という先生を尊敬している。やっぱり、すごいちゃんとした人がいるんですよ。分かりやすい。みんなが分からないんじゃないか、それなら分からせてあげようっていう先生がいてさ。だから、そういう本を勉強しなさいと。だって、『古今集』みたいに、和歌を1000年ぐらいもつようにって言えるためには、やっぱり勉強して力を溜め込まないと。
伊藤 そうですよね。
原 そのためにはいろいろ準備しなくちゃいけない。その準備のための建築が、基本的にはいい建築なんじゃないかと僕は思うんだけどね。
伊藤 はい、なるほど。
原 要するに、全体で言うと生成する力――これは、15世紀にニコラス・クザーヌス(※35)が”Generaito”と言った力だけど、つまりジェネレイティブ。たとえば、チョムスキー(※36)もそうですけど、チョムスキーは、「先んじて生成できる」っていうのが彼の言うところで、アメリカ的なんですけどね。ジェネレイティブ――つまり、なにかを生成する。チョムスキーの言っていたことは、しばらくよく分かんなかったんだけど、この1年くらいで初めて分かったんですけど。彼は“ちゃんと伝えられる”っていうか、その「“伝えられる力”を、みんながアプリオリに共有している」と言っているんですね。カントがあれこれと表したように、言語の文法に対しても、それが言えるだろうと。チョムスキーはそう考えた。ジェネレイティブな力は、昔から、それは言ってみれば同時代性、ジェネレーション。そういうことじゃないかと僕は思うんだよね。だから結局、ジェネレーションっていうのが救いなんですよ。
伊藤 生み出すっていうことが救い?
原 そう。人間は生み出す、ジェネレイティブっていう力を持っているんだけれども、それはそれぞれの人間を生き延びさせられる力になっているんじゃないか。
伊藤 今の話の全部を理解できてるわけじゃないんですけど、先ほどおっしゃっていた定家の編纂した歌の中で、「花も紅葉もあるし、ないし」というような話がありましたけど、その見立てる力っていうんですかね。つまりそれは結局、なにかが“在る状態”を知っていることを前提に、“無い状態”を見ている――その二重に見る力っていうのが風景を捉える上で非常に大事なんじゃないかと僕たちも思っていて。たとえば、茶室の床の間の話として、西行(※36)が侘しい庵に一人で住んでいて、お客が来たときだけ庭に生えていた稲穂を活ける。そこに自然の美しさを見ることができる。それがすごく大事な人間の力で、それをできるから生きたいと思うって言ったら、ちょっと言い過ぎですけど、そういうことに生きることの豊かさを覚えると思うんですよ。
原 その通り。
伊藤 だから、今の僕らが、じゃあ具体的に風景をつくる、あるいは建築をつくるときに直面する問題としては、そういうことをつくれる機会をもっともっていかないと駄目じゃないかっていうのはありますよね。現在でも「歴史がどうだからこういう建物を建てましょう」というようなことは、みんな文脈上は言いますけど、非常にパッケージ化された表象的なレベルでしかなくて、そこに和歌を詠むっていうのは無理ですよねっていう建築ばかりだと思います。和歌を詠めるような、俳句を書けるような建築が造れないと駄目だっていうのは、すごく思うんですよね。
原 そうですよ。いや、だけど言葉が、残念ながら、非常にいい記号なんですよね。建築を記号化して、“記号場”っていうものをつくり上げたとしても、なかなか言えることが少ない。つまり感情を述べたり、どういう解釈をしたとかって、それがなかなか言えないじゃない。
伊藤 言えないですね。
原 それが言えないから、すごい限定されているんですが。だけど一方で、言語は、それはなにか素晴らしい世界をつくってはくれているが、暴力的であるとも言えるよね。すごいね。言語とか文字を持っている連中っていうのは、すごい一瞬のうちに何か…
伊藤 我々を連れていってしまいますよね。
原 まあ、短かな対話だから、結論はないですよ。それと、私の発言は概ね、大時代的、古いと理解されると思いますが、これも二重写しで、そうであるとも、そうでないとも言える。
伊藤 はい。
原 最初に言っとくべきだったかもしれないけれど、今の瞬間、あるいはこれから暫くは、端的に表現すれば、”神なき時代”の風景であり、建築なんですよ。だからと言って、これまでの歴史――つまり”神の時代”の文化的所業が、意味を失うのではなくて、たとえば、神話のように輝き続ける。ただし、これからは、”神なき時代”における新しい神話を、共同して、あるいは、ばらばらに、作っていかなくてはならないでしょう。それは、自滅との戦いでもある。
伊藤 本当に、そうですね。
原 それに、”神なき時代”というのは、カミュの”不条理な(仏:absurde)時代”とも言えます。ここでの対話は、この事態を、「何もかも意味はない」とか、「変化だけが要点である」とか、投げやりな思想こそ、資本主義という危険な形態だけが生き続け、やがて自滅する道すじを辿るに違いないんです。
伊藤 はい。
原 だいたいが、多くの人は、”神なき時代”などと言っても、考えることさえしない。だから、彼らは、ここで今話したようなことは、ちんぷんかんぷんだと主張する。あるいは、absurde(訳:不条理な)に対して、西欧の伝統からすると、懐疑主義ではないか、と言うかもしれない。しかし、一方では、”自由”や”平等”のような理念は、つまり人間の叡智=wisdomは、神話と同じように輝いているわけで、たとえば、カミュは、これらの理念の探求の態度を”反抗”と呼んだ歴史があるのです。
伊藤 理念の追求を、”反抗”と。
原 そう。ただ、ここでは二重写しという解りやすい概念に沿って、準備の一端を話題にしたけれど。ほんの短い「瞬間」も、限りなく長い「永遠」も、同型なのだといった、位相幾何学的了解や感覚が、こうした事態の下では、なにより重要なのです。
※32 ミース・ファン・デル・ローエ:1886-1969, ドイツ生-アメリカ没, 建築家, 近代建築の四大巨匠の一人
※33 藤原定家:1162-1241, 公家, 歌人, 文人
※34 エトムント・フッサール:1859-1938, オーストラリア帝国(現チェコ共和国)生-ドイツ死没, 哲学者, 数学者
※34 松本幸夫:1944-, 数学者, 多様体位相幾何学, 東京大学名誉教授
※35 ニコラス・クザーヌス:1401-1464, 神聖ローマ帝国(ドイツ), 哲学者, 神学者, 数学者, 枢機卿
※36 エイブラム・ノーム・チョムスキー:1928-, アメリカ, 哲学者, 言語学者, 論理学者
※37 西行:1118-1190, 武士, 僧侶, 歌人
<次編:vol.5『焦らず、ひたむきに修練すること 』>