NO.67
原広司 vol.3 『二千年を超える形而上学を問え』
INTERVIEW
2023/03/07 02:24
20世紀を代表する世界的な建築家・原広司さん。
その建築作品は国内外を問わず高く評価されており、代表作はJR京都駅、大阪梅田スカイビル、札幌ドームなど、誰もが一度は見聞きし、訪れているだろう建物である。しかし、その作品の規模・形態・機能の多様性は凄まじく、おそらく日本でもっとも様々なタイプの施設を設計した建築家でもある。原さんの建築はグローバルでもあり、ローカルでもあるという、二つの事象が同時に観測される。そして、その空間は、時間や環境の変化に対して、実に多様に展開することも特徴である。
また、その一方で、原さんは言葉の人でもある。1960年代からこれまでに様々な著作・論文を通じて、建築界に大きな影響を与えてきた。その言説は、数学や物理学、芸術と音楽、思想哲学、歴史、宗教などの垣根を易々と超え、かつ独自の視点で結びついている。
今回のインタビューでは、そんな原さんがどこで生まれ、何を体験し、何故そのようになったのか、という素朴な疑問を、我々の問題意識と結びつけながら質問した。また、戦後の20世紀という濃密な時代を、建築家・思想家として、どのように捉え、駆け抜けたのかについても語ってくれた。
屈指の名インタビューとなったことを確信している。
戦災と飢餓を生き抜き、世界中を旅してきた巨人が、いま自身の人生について口を開いてくれた。
我々もまた、神に代わる、武力に代わる、新たなフィクショナリティーを求めて旅に出よう。
伊藤 原先生は最期、肉体的にか、あるいは精神的にか、心の還る場所のようなところはありますか。
原 うーん。ふるさととか、何かそういうこと?
伊藤 そうですね。
原 そうだなあ。(…しばらく思案して)それはさ、あれじゃないかな。そういうような意味でその質問に答えるとしたら、やっぱり大瀬の谷じゃないですか。今、僕が帰るのは。
伊藤 大瀬の谷。
原 大瀬の谷。つまり、大江文学の舞台となった場所。そこに建物も建っているし、その場所っていうのは消えることはない。僕の建物のせいでじゃなしに、大江文学のためにずっとこれから消えることはないわけだから。それは谷で呼応するというか、自分の伊那谷っていうのと、大瀬の谷っていうのが、非常にオーバーラップするっていうか、連関を持つというか、そういうのがあるんで。
伊藤 なるほど。

原さんが設計を手がけた大瀬中学校(1992年竣工)
大江健三郎さんの物語において重要な土地である「大瀬の谷」に建つ中学校。日本建築学会作品選奨、BCS賞などを受賞。
写真引用元:愛媛県喜多郡内子町 のHP『大瀬「森の中の谷間の村」の営みにみる歴史的風致』より
原 だから、フィクショナルな谷みたいなもの。現実の谷っていうよりかは、フィクショナルな。つまり、クリエーティブ。クリエーティブっていう単語は、普段僕は絶対使わないんだけど(笑)。つまり、創造主だよ。そういうふうに創造する、そういうような話として、それに代替するのは、科学だと思っているんだけど、いや…(…しばらく思案して)まず、“在った”と僕は思っているわけだよ。仏教みたいに。つまり、宇宙は初めからあったんだよと。あったんだから、それでいいじゃないかって考えるわけですね。つくったのは誰かなんて問わないわけですね。まず、“在った”。そういう意味で、形而上学的な問題がある。神がいなくなったから形而上学的でなくていいよっていう話は全然なくて、神がいないからこそ形而上学は、人間はどうあったらいいのかと問う。
伊藤 はい、わかります。
原 神がいれば、どんな建築を造ってもいいわけ。だって正しい人が、神がいるんだからさ。そうじゃなしに、何が正しいなんてことは分からないんだから。要するに、ちゃんと造らなくちゃいけないんだよっていうことだよね。
伊藤 はい。
原 考え方が違うんだよね。違うっていうか、それは両方にいつもできるような具合になっているんだけど。やっぱり神の問題は、すごい難しい。ただでさえ今いろんな問題があるわけですよ。なにかテロの問題にちゃんと答えなくちゃならないとか、都市の問題とか考えたらね。でも、本当にそういう話をしたときに、本気になってちゃんと形而上学的な問題に対して「こうなんだぞ」とか「私はこうである」っていうふうに、ちゃんと言えないとね。そう言えないと真剣な話にならない。その真剣な話をしたときに、ちゃんと和解点があるのかとかは知らないけども。だけど、フィクショナリティーっていうのは、それが非常に巧妙なフィクショナリティーができているが故に、僕は神話なんかものすごく好きなわけですよ。いい。評価するわけです。科学はどうあろうと何しようがね、それは絶対的に正しいわけ。でも、科学が素晴らしいように、神話は素晴らしいわけですね。
伊藤 はい。
原 神はいないって言われても、私にはあまり影響しないわけだけども、はじめに建築はそういうものをつくったわけだから、神がいないなら、いないなりに、やっぱり建築としてしっかりしたものを建てないと、まずいんじゃないかと思うわけです。任しとく人がいないんだからさ。だから、そうするときに、どういうふうに考えるべきなのか。まあ、今の時代はそれが恐らく、かなり…全然ゼロっていうのかな(笑)。
伊藤 最初の質問に戻ってきたところもありますね。結局、今の社会で建築に命題が持ちづらいという話は、つまり、どういうふうに、この観念的なところを捉えていけばいいのか。
原 うん。そうなんだ。
伊藤 しかも、すごくスパンの長い先を見ながら話すべきことですよね。
原 そうそう。
伊藤 とても難しいのは、誰も外側に立てないことですね。現代の社会を外から見るということができない。先ほど、原先生がおっしゃったような、たとえばテロの問題であるとか、日本の場合はより直接的には防災の問題であるとか、そういう具体の問題っていうのはたくさん起きていますし、一方で経済成長はもうそれほどしないだろう、縮退社会とは何ぞやという問題もあります。子供がいる人にすれば、このまま少子高齢化が進むのは結構きついなとか。具体の問題っていうのがそこら中に転がっているんだけど、何を目指して建築を造っていけばいいのかっていうところは、いまいちはっきりしないんですよね。
原 それが要するに、集落に見本があるんじゃないの。つまり集落っていうのは、他の建築――寺院の建築とか、なんかの公会堂のすごいやつよりか僕はすごいと思う。それはさっき言ったように、誰か助けてくれるんじゃないかしらみたいな、そこのことをちゃんと考えるっていうかね。それをもう一回、ちゃんと言い直す。けど、「もう、みんなやってきたじゃないか」という人もいるけどね。「ヒューマニズムがどうのこうのなんて、民主主義がどうのこうのなんて、やってきたじゃないか」って言うんだけど、実はやってきてないんだよね。

原広司『集落の教え100』彰国社, 1998
世界中を旅してきた原さんが様々な集落を紹介・分析し、豊富な実録写真やスケッチと共に豊かなテキストを織り上げている。建築関係の人でなくとも十分に楽しめるので是非手に取ってみて頂きたい名著。
原 それで、とくに僕が最後に問いとして挙げようと思っているのは、たとえば、神と銃――剣でも大砲でもいいし、爆弾でもいいけども――どっちかやめろって言ったら、どっちが難しいか?
伊藤 神と兵器…武器ですか?
原 そうですね。
伊藤 戦うことと神と、どっちをやめるか…。
原 どっちが嫌だって、僕はそれをアメリカに言いたいわけだよ。問いたいわけ。あなたたちは、なにか一生懸命ソローとかを学びながら、なにか妥協して、あなたたち、少し間違ってないのって。
伊藤 それは2000年以上にわたる問いですね。
原 そうです。それは、2000年以上かかってもいいの。それくらい続くの。だけど具体的にあるわけよ。たとえば、それで僕はもう一回ちゃんと勉強しなくちゃいけないんだけども、何故1925年が区切りなんだと僕が言うかっていうと、量子力学が、ハイゼンベルグがマトリックスの方程式の本を出して、それで26年にシュレディンガーが方程式を出したわけですよ。それで両方とも同じ意味で、その実験結果が非常に合うということを言いながら、アインシュタイン(※27)が「おまえら何を言っているんだ。そんな神がサイコロを振るなんていうことをするか」と言われて、みんな真っ青になって、それから100年、量子力学の連中が考えたわけですよ。それで解答を出せないわけだよね。そのまま問題は止まっているんですよ。そんなことは、いっぱいあるわけ。例えば、ダークマターっていうのは一体何なのかとか。あなたがたはみんな、クォークなんて洒落たことを言ってるけど、発見したものがあるのかっていうと、クォークなんか発見されていないんだよ(笑)。僕は驚いてさ。実在としては発見していないんだよね。
伊藤 そうですよね。観測から計算して出てきた。
原 そう、計算して出てきた。あれ、ただ理論的に言っているだけ。そうして見ると、つまり、こういうこと全体を含んだ問題なんだ。さっきの武器の話とかさ。あなたは神とどっちを捨てるの、どっちが難しいかとかさ。そういう根幹的な問いっていうかさ。
伊藤 なるほど。
原 こういう話を建築はしないんじゃないかと思っているのが大間違いで、建築は絶対にするんですよ。そういうことを踏まえて、僕は長々とソローとエリオットの話もしてさ。やはりH.D.ソローなんていうのは本当に素晴らしいし、T.S.エリオットってものすごい人なんだよね。ただ、そうではあるが、その人たちには、なんか神様がいたんじゃないの?っていうかさ。僕たちにはいない。とすると、どうするの?って。そういう問いでいいんじゃないかと僕は思うんです。それは基本的にすごい形而上学的な問いであってさ。何か子どもにでも分かるし、大人の専門家であっても分からないし。そういう状態にあるときに、それじゃ建築は何かっていうときに、そういう問いに答えるんじゃないですか。
伊藤 建築も根源的な問いを考えると。
原 それは、昔からアリストテレス(※28)とかが言ってくれていたわけです。建築っていうのはこうだと比喩で言って、彼の哲学をつくってきたわけじゃない。それで皆、一度は勉強して、「そういうことは分かってきた」なんて言うかもしれないけれども、分かってなんていないんですよ。現実は全部ね。それはやっぱり神のいないところで問題を提起するっていうことが、仮にできないとしても、何かもう少しいろんな関わり方ができるんじゃないかと。そういう風にしていかないと。
伊藤 なるほど。
原 それで、でも僕は問題を全て説明したわけじゃなしに、もっと実践的な意味で、それぞれの問題がどういう意味を持っているのかって説明はするけれどね。それはできると思ってる。うまくいっているのかどうか、分かんないけど。でも、みんなは「そんなことは…」って言うのさ。そりゃすごい反省したり、自覚していたりしているけれども、資本主義の暴力っていうのは、ものすごいものがあるわけじゃん。抗し切れないわけよ。それにやっぱり通っていかなくちゃいけないわけね。それはもっと非常に冷静に、知的問題として問うていかなくちゃいけなくて。だから、それぞれの分野での専門家っていうのはものすごく重要でさ。
伊藤 建築も然りですね。
原 建築はなぜ重要かっていうと、建築っていうのは惰性態としてできる。つまり、事例があるからできるわけ。それで、事例があるから誰でもできるんだけども、それじゃあ、どれだけやっても等価であるかっていうと、そうじゃない。ちゃんといい建築と悪い建築があるような気がするんだよ。はっきりしている。それで、そういう“いい建築”を目指さなくちゃいけないんじゃないか。それは、つまり、何かの問題が、現実にどう対応していくか、みたいなことで考えていいんだけど、その元には「神がない時代の物語をどういうふうに語れば美しくなるのか」ということを、ちゃんと答えなくちゃ。それで誰も答えてこなかったわけです。新しい時代の哲学でも何でも、神を信じていない人の哲学なんて今までないんですよ。ヘーゲル(※29)でも誰でも、言ってることは「結局神様がおりますね」っていうような話でさ。何を言ってもそういうふうで。
伊藤 はい。
原 でも、これだけ資本主義の暴力を目の当たりにして、「何かちゃんとした方がいいんじゃないの?」って言っていいんですよ。言わなくちゃいけない。みんな、遠慮してるから。遠慮して言うわけよ。東西どこでも。それは非常に重要なんです。僕なんかは絶対的な飢餓とか貧困とかあったけれども、そういう状態に置かれると、絶対、反抗なんてとんでもない。反抗どころか、成り行き以外にあり得ないわけですよ。それと同じように現実が今大変なことになっている。だけど、生き抜かないといけないんじゃないかって。だから、その時間の設定を、それじゃ来年までにとかいうんじゃなしにさ。
伊藤 もっと長いスパンで捉えるべきと。
原 そう。ちゃんと。たとえば、彼はどんなに偉かったと思うんだけど、『新古今和歌集』の序文を書いた紀貫之(※30)なんかだとさ、1000年くらいもつかしらっていうので言っているわけでしょう。1000年くらいもってくれたらありがたいなって言ったら、本当に1000年もったっていうかさ。大したもんだと思うよ。文化ってそういうもんなんだよ。そういうロングスパンのものだ。
伊藤 本当に、そうですね。

紀貫之(866-945)
『上畳本三十六歌仙絵』鎌倉時代(13世紀)
画像引用元:公益財団法人 五島美術館HPより
原 それと、人を信用して生きたほうがいいんじゃないかと、そこのところだよ。じゃあ、どういうふうにっていうのは、時間があるんだから、みんなで考える。いろいろ十分考えられるんじゃないか。そんなせっかちにしなくてもいいんじゃないか。
伊藤 武器も神様も、ある意味では、人間がすがるものだと思うんです。でも、お話を聞いていると、原先生の中では、疎開したときの原体験からいっても、むしろ人間を信頼している。そして、人間が助け合うその力――その構想力みたいなものが、たとえば集落の中に、人間が生き抜いてきた形として表れているんじゃないかっていうことですよね。
原 そう。だから、それが一体、何であるかっていうのは、自由とか平等だとかいう分かり切ってるような概念から始まって、僕はもっと基本的な問題と思っているのは、それは仏教徒であるっていうことなんだろうなと思うんだけども、ああいう二律背反っていうか、二者択一の問題、つまり真偽の問題とかさ、言語学なんかが盛んにやっているんだけど、あいつら、馬鹿なんだろうと思うんだよね(笑)。真理とかなんて、なんで彼らがね。二者択一なんて、そんな冗談じゃないっていう。そういうところから崩していかないと、その本題が分からないんだと。それが量子力学だなんてもう言わないけれどもさ。つまり、新しい組み立てをしていかないと分からないんですよ、きっと。そういうような状況に入っているんだろうと思う。だから、そういう根本的な何か文化っていうか。そういう問題を解くしかないんだっていうかさ。そういうことなんじゃないですかね。今、科学はね…科学を進めようとしても、単なる確率論とかさ。確率とか統計で何でもそうやっていろいろ説明できるっていう、それもいいんだけども。
伊藤 それだけじゃない考え方というか。
原 何か導入しないとね。
伊藤 在り方ですよね。
原 うん。在り方を知らないと。たとえば、シュレディンガーの猫とかさ。あれの説明をできないというのは、公理に関して、すごいなんか大問題があるわけですよ。“公理の中に矛盾がある”っていうのはゲーデル(※31)とかが言ってきたことだけども、公理の立て方がうまくいってないんじゃないかなと。何が公理であるかっていうところがね。「こんなの当たり前じゃないか」っていうのが公理だよね。その当たり前じゃないかと言っているところの認識が、根本的に違っているところがあるんじゃないかと思うのね。それに関して、神様がいる間はあまり真剣に考えなかったんじゃないかと。どうせ神が分かっていると考えただろうからね。
伊藤 でも、それは今、また真剣に考えなくなっているかもしれないですね。
原 余計にまずいか(笑)。
※27 アルベルト・アインシュタイン:1879-1955, ドイツ生-アメリカ没, 理論物理学者
※28 アリストテレス:前384-前322, 古代ギリシャ, 哲学者
※29 G・W・フリードリヒ・ヘーゲル:1770-1831, ドイツ, 哲学者
※30 紀貫之:866-945, 歌人, 文人
※31 クルト・ゲーデル:1906-1978, オーストリア生-アメリカ没, 数学者, 論理学者, 哲学者
<次編:vol.4 『 想像と創造:花も紅葉もなかりけり 』>