20世紀を代表する世界的な建築家・原広司さん。
その建築作品は国内外を問わず高く評価されており、代表作はJR京都駅、大阪梅田スカイビル、札幌ドームなど、誰もが一度は見聞きし、訪れているだろう建物である。しかし、その作品の規模・形態・機能の多様性は凄まじく、おそらく日本でもっとも様々なタイプの施設を設計した建築家でもある。原さんの建築はグローバルでもあり、ローカルでもあるという、二つの事象が同時に観測される。そして、その空間は、時間や環境の変化に対して、実に多様に展開することも特徴である。
また、その一方で、原さんは言葉の人でもある。1960年代からこれまでに様々な著作・論文を通じて、建築界に大きな影響を与えてきた。その言説は、数学や物理学、芸術と音楽、思想哲学、歴史、宗教などの垣根を易々と超え、かつ独自の視点で結びついている。
今回のインタビューでは、そんな原さんがどこで生まれ、何を体験し、何故そのようになったのか、という素朴な疑問を、我々の問題意識と結びつけながら質問した。また、戦後の20世紀という濃密な時代を、建築家・思想家として、どのように捉え、駆け抜けたのかについても語ってくれた。
屈指の名インタビューとなったことを確信している。
戦災と飢餓を生き抜き、世界中を旅してきた巨人が、いま自身の人生について口を開いてくれた。
我々もまた、神に代わる、武力に代わる、新たなフィクショナリティーを求めて旅に出よう。
原 私が建築を始める前に戦争があったわけです。非常に素晴らしい多摩川の下流のところに、そこに渡っていって川崎に何年か住んでいたけど、そこで素晴らしい世界が一瞬あって、それから戦争になった。空襲になると、更地になって。それで、その空襲になったときに逃げていくところがどこかというと、長野県の飯田市に逃げていったと。そのときに非常に重要なことは、日曜学校で教わっていたような、汚れた街をひとまず出て行くんだと。幸いにして僕らは、本当に幸いなんだけど、母親は正しい判断をして、自分たちは残って、僕たち兄弟3人を新宿駅の窓から入れるんだよね。汽車の中へ。それが助かるんですよ。その3日後か4日後には…。
伊藤 空襲が?
原 空襲があったんですね。それは確かめた。大体そのときに、そんなことになるんですよ。それで非常に運が良かったんだ。
伊藤 そして、飯田の疎開生活に?
原 そう。それは天竜川の流れる素晴らしいところであった。が、待っているのは飢餓と貧困しかない。戦争で焼け出されて行くわけだから、それしかなかった。飯田の生活にはね。だけども、そのときの自然ってすごい豊かだったと思う。そうじゃないかと思うんだけどね。でも、実はとんでもない。駄目なんだ、生きていけないんだね、人間って。農耕っていうのがないと。本当に農耕しないと人間は生きていけない。つまり、狩猟だけでは。子どもながらっていうこともあるかもしれないけど、基本的には農耕ですよ。それで僕は、どうしてその飢餓と貧困を生きていけたのかと。どう考えても、生きられない。そこにいて、飢餓と貧困の中で何もないわけですからね。何もないっていうのは、すごい本当にない。つまり、みんな、そこへ疎開してるわけですよ。そうすると、草1本生えていない。考えられないじゃない、草1本も生えてないっていうのは。ウサギが食べられても、人間が食べられない草っていうのはいっぱいあって。つまり草1本生えていないっていうのは正確じゃないけど、人間の食べれるものがないんですよ。これはすごいことでね。みんなが探したんです。疎開生たち、東京から疎開していた連中が全部探した。とりあえず、生き物でも何でも、イナゴであろうが何だろうが全部食べてしまったわけですよ。何にもないんだよね。何しろみんなね、食べるものがなくて。
伊藤 今ではとても考えられないくらい、壮絶ですね。

戦争が本格化する前の天竜峡駅(1935)
この後、長野県伊那~飯田の一帯が、多くの学童を受け入れる疎開地となる。
天竜峡温泉観光協会HPより
原 われわれは弁当を持って行けていない組だった。弁当を持って行けていない組っていうのは、弁当を持ってこられる人がご飯を食べる間は外へ行って遊んでいらっしゃいっていうような境遇だった。だけど、僕は絶対、人を恨まなかったし、いろんなことで殴られても殴られたままであるし、反抗しなかった。反抗するなんていうのは、本当に極度に貧乏だったらね、反抗なんか絶対できないんですよ。反抗したら大変だからと思って、なるたけ静かにしてる。その間、一度も、そんな神が助けてくれると思ったり、助けてもらおうと思ったり、そんなこと発想したこともなかったね。つまり、森の生活の中にいた。そのとき、俺は森の生活をしたかもしらんな。それに近いんですよ。その話をすれば、また長い話があるんだけど。
伊藤 さっきの話と少し繋がってくる?
原 うん。そこで、何故わたしは有孔体なんてことをやったのかと。僕は、初めに閉じた空間があったと考えた。それで、そこの閉じた空間で生きるためには、穿孔して穴を開けなくちゃいけない。外界との交通を開くには、そう図らなくてはならない。それが建築であろうと。そういうイメージしたっていうのがね。
伊藤 はい。
原 その理由をどういうふうに考えたらいいのかっていうと、僕のときは時代として、もう神はいなかったんだ。そのことは、やがてサルトル(※15)とカミュ(※16)が論争する。カミュが『異邦人』を書くのが1942年。それで『反抗的人間』を書くっていうのが1952年。そういう年表ができているからあれだけども、そこでつまり、そういう話を検討しようっていうのは、本当にいいんですかっていうかさ。僕はこの神がいない時代に設計をしようと思ったから、神がいないようなところを、つまり宗教的なこととか神がどうのこうのっていう話ではない話で、幾何学的に設計を提起してきた。それで非常に重要だと思うのは、こういうことなんだよ。もちろん神がいたときの話としての建築とか集落とか、そういうのが間違っているのかというと、全然そうじゃないと。そうじゃなしに前提が違う。そうでしょう。つまり、その前提の「神が全能である。宇宙は神がつくった」というその前提に立って話をすることは間違っていると思う。だけども、その間違っていることを最も美しく語るような、表現できるような哲学をし、建築をし、何とかしてきたんじゃないのって話。だから、「あなたたちに言えることは、本当に美しくうまくやりましたね。ただ、私は違うのです。全然違ったところから出ているのです」と。神がいると思ったら、こんなことはやってない。そんな発想をしていなくて、もうちょっとちゃんとした儀式的な建築とか、そういうようなことも発想して、モニュメントのような建築っていうのを造ったかもしれない。だけど、そうじゃなくて、科学が正しいとか宗教が間違っているとかっていうこと以前に、なにか感覚として、苦しい生活の中で一度も神はいなかった。でも、人を恨んだことも、妬んだことも、何もないしさ。こういうものだから、しっかりしなくちゃ仕方ないなと思っただけであってさ。
伊藤 戦時中の生活に、神はいないことは明らかであったと。
原 だけど、誰かが、すごい助けてくれたわけですよ。だって、そうでなければ子どもが生き残るなんて無理。僕なんて戦争のときは、9歳なんだよね。10歳のときに戦時終戦の45年ですからね。それで、僕はそのとき自分で生き抜く中で、すごい発見してね。それは、カエルなんですよ。カエルを取っていたんだ。それが、われわれの兄弟全体にも両親にも一番効いたんじゃないかと思うんだよね。カエルだけだね、小学生が捕まえれるの。田んぼに、カエルがめちゃくちゃな数いるの。あとは、食べられる草は一本も生えていなかったから。それで他に何をやったかっていうと、ウサギが人間の食べられないものを食べて、それで自分の肉を提供するわけじゃない。ウサギっていうのは、そういう変換装置なんだよね。だから、ウサギを育てて、「ほら、アブラナだ、ハコベだ、クローバーだ」って、人間が食べれないものをどんどん食べさしてさ。そうしたら、それを猫が襲ってさ。だからもう猫とは散々やり合った。そうすると、ウサギがどうするかっていうと、自分の産んだ子どもを全部食べるんですよ。自分の子どもを。それは、自分の子孫を自分の栄養のために食べるんだよ。猫に食われて殺されたら大変だってわけで。それが一番の問題。要するに、ウサギを育ててデカくするってもさ、とにかく猫が途中に食うからさ。それで捕まえたりするけども、全然驚かないっていうか、いくら追い払ったりなんだりしても懐いてさ、なんだか可愛くしてやってくる。めちゃくちゃいじめるんだけど、何も驚きもしないで、親しげに来るんだよね(笑)。
伊藤 なるほど。
原 だけど、そういうことはあったけども、とにかく誰かが助けてくれた。僕もいろいろ考えて、やはり、いろいろ考えたけど、いろんな人がどういう訳で生きていられたのか分かんないんだよね。死んだ人もいるわけです。餓死した人とかも。だから、アメリカのいろんなトマトやらジュースとか何かと一緒に来た、その谷間へやってきたアメリカの民主主義なんていうのは素晴らしいもんだと思ったとかさ。そういう記憶はある。自分のすごい苦しさ、経済的なこの貧困。絶対的な貧困だからね。準備して移動したっていうのと違う。大概なわけですよね。何もない。
伊藤 疎開先でも、生き残ること自体が大変だったんですね。
原 そう。でも、それは、うちの父親の判断力、つまり職人の判断力をまだ信じていたわけですよ。そのときの報道は、まだいろんなことを、嘘ばっかり言うわけだよ。だから、決定的に大変なことが起こっても、僕はそういうわけで、そのままにした。当時は何しろ、細かいことは何一つ分かんない。だから、たとえば、全員の親と兄弟なんか、1日大豆5粒とかそういうの、当たり前なんだよな。そういう現実の、何ていうか……、日本はそのときひどいもんだから、配給は大豆の絞りかすとか。あとは、ドングリもすごいけどさ、ドングリは粉にして食べろって。でも、一番すごいのは、クマザサですよね。クマザサっていうのは、いくら何でも食べられないよ(笑)。でも、これは粉にして食べなさいって言う。それが配給されたんです。だから、誰ももう何ていうか、戦争の状態で、よほどのことじゃない限り、みんな大体どうなっているかっていうのは全員知っていたわけよ。父親は職人だから、非常に頭のいい人であったけど、それに関しては、やっぱり現実は子どものほうがよく分かっていたかもね。こんなの勝てるわけがないって。戦争だっていったって話にならない。B29が来たり、グラマンだってカーチスだって飛んできたりしてさ。その力を見ていて、これはやっぱり勝負にならないっていうかさ。戦争なんて成り立ってないんだよ。
伊藤 そうだったんですね。

戦災を生き延びた原先生と御家族(1952年当時)
中学生~高校生の年齢にあたる時代の原先生。お母さま・お姉さん・妹さんと共に。
原 だから、そういうようなことから、そういう感覚――神様がどうのこうのとか何かって、やっぱり考えつかないよね。近くに川崎大師へ連れていかれたときとか、いろいろ山王さんで遊んでいるとか、そういうことはあっても、信仰心って全然持っていないんだよね。何しろ生き延びなくちゃならないと思っていることだけはあって。そして、生きることの中で、何ら反抗してはいけない。学校なんかもっと非常に凄かったけど。何となく思うわけです。つまり、それは何かっていうと、同時に生きていた人だよね。どの人って言えないけどさ。同時に生きていた大勢の人々が助けてくれたんだろうと思っている。きっと倒れていたと思う。おなかすいて倒れるかもしれないわけじゃん。事実、戦後3年くらいたって、中学1年のときには、やっぱり肺のリンパ腺の病気で動けなくなっちゃってる。そういうことがあった。だけども、しょっちゅう気を失ったりなんかしていたかもしれないけれども、みんなが何かで助けてくれているわけですよ。それで、なんとか食べるものの半分か何か、少し分けてくれるとかさ。そういうことをしていなかったとしたら、なんで生きていられたか他に理由が分からない。僕はそういうようだから、漠然とね、そういう同世代の人々、同時に生きた人々、その人たちに対して限りなく感謝をするっていうことだけなんですよね。食べ物に関してどういう思い出があるかなって、一生懸命いくつか思い出してみても、どうも納得がいかない。きっといつか何か思い出すのかもしれないけど、自分がなぜ餓死していないのかっていうのは理由が分からないですね。
伊藤 その「なぜ生き残ることができたのか」という感覚が、原先生がお若いときから今まで、ずっと同じような感覚としてあったんですか?
原 ずっと思っていましたね。それで何かその状態から逃れたっていうのは、大学を出た頃だ。大学を出て、しばらくたって、そのとき内田(※17:内田祥哉)研にいたんだけど、僕はもう高校の2年ぐらいから住み込みの家庭教師とかなんかばっかりやって、やっと生きているっていう状態なんですよ。それで、内田先生がそういうような状態を見かねて、建築の翻訳の仕事を探してきてくれた。一緒に『アルミニウム建築』っていう本を内田先生の授業で訳したんだけど。それの構造的な部分はそれができる人が訳して、僕がそのうちの建築のデザインの話をして。『アルミニウム建築』っていうこんな厚い本。それから、それの前後かな。そういう時代の、つまり、近代化のめちゃくちゃな情報が入ってくる。でも、とにかく建築の翻訳をしているだけで食べていけるようになった。それが大転換だった。
伊藤 やっと普通の仕事で生きていけている、その糧を得た感じと言いますか。
原 そうそう。何か、それまでの何やってんだか分かんないようなさ。つまりいったい何年、家庭教師っていうことをやったんですかね。もう、つくづく嫌で。もうしょうがないけど。だから大学の何年間くらいかな、少なくとも6年間くらいかな。
伊藤 大学院生の頃くらいまで?
原 そう。大学院の1年から…まあ、2年のときにはもう完全に解放されていたかな。なんと建築はいい世界かと思ったよ (笑)。
※15 ジャン=ポール・C・A・サルトル:1905-1980, フランス, 哲学者, 小説家, 劇作家
※16 アルベール・カミュ:1913-1960, フランス, 哲学者, 小説家, 劇作家
※17 内田祥哉:1925-2021, 建築家, 建築生産学, 東京大学名誉教授
<次編: vol.2『丹下健三の家と、柳田国男の書斎』>