ベトナム・ハノイを拠点に国際的に活躍する建築家・丹羽隆志さん。今回のインタビューでは、前編のレビューをもとに、ベトナムで活動するに至った経緯や、若かりし頃の体験などを話してもらった。
盟友ヴォ・チョン・ギア氏との出逢い、東京で過ごした自由で孤独な期間、岡部憲明氏の事務所での修行時代など、今日の丹羽さんを形成する人生の様々な局面が思い起こされ、最後は生まれ故郷の白山から、現在のエントロピーを最大化するというハノイまで一挙に戻っていく。
――北国に生まれ、亜熱帯を駆け抜ける建築家の過去と未来を覗き見る。
丹羽 あとは日雇いバイトをやったり、海外を旅行したりしていましたね。
崎谷 バイトは何をやっていたんだっけ?
丹羽 当時はグッドウィルっていう日雇いバイトを斡旋するような会社があって、それで本当にいろいろな種類のバイトをしてましたね。防衛省に納品するためのパソコンをセットアップする仕事とか、ヤマダ電機の倉庫で製品出しの仕事とか、上野の高架下にあるエッチなビデオ屋さんのラックを組み立てる仕事とか(笑)。
崎谷 なにそれ(笑)。
丹羽 本当に(笑)。面白いんですよ。当時はそれでいろいろな所に行けて、毎日違うことをしていたんです。
崎谷 良いですね。いくつぐらいなの?
丹羽 23歳くらいですかね。しばらくして、少し安定した方が良いかなと思って、カメラで有名ですけど、コピー機の会社のRICOHで派遣社員として仕事を数ヶ月やりました。それがちょうどグラウンドスケープ・デザイン・ワークショップに参加した後くらいですね。環境室っていう気温と湿度がコントロールできる部屋があるんですが、そこに開発中のコピー機を置いて、いろいろな環境でたくさんコピーして問題が起きないかチェックするという仕事をやっていました。それの何が良かったかって、環境室では温度が何度で、湿度が何パーセントかっていうのを、その日その日で違う設定で、一日中その部屋で作業するんですね。それを、自分の身体で感じれたっていうのが、本当に良かったんです…
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