NO.66
原広司 vol.2 『丹下健三の家と、柳田国男の書斎』
INTERVIEW
2023/03/04 01:56
20世紀を代表する世界的な建築家・原広司さん。
その建築作品は国内外を問わず高く評価されており、代表作はJR京都駅、大阪梅田スカイビル、札幌ドームなど、誰もが一度は見聞きし、訪れているだろう建物である。しかし、その作品の規模・形態・機能の多様性は凄まじく、おそらく日本でもっとも様々なタイプの施設を設計した建築家でもある。原さんの建築はグローバルでもあり、ローカルでもあるという、二つの事象が同時に観測される。そして、その空間は、時間や環境の変化に対して、実に多様に展開することも特徴である。
また、その一方で、原さんは言葉の人でもある。1960年代からこれまでに様々な著作・論文を通じて、建築界に大きな影響を与えてきた。その言説は、数学や物理学、芸術と音楽、思想哲学、歴史、宗教などの垣根を易々と超え、かつ独自の視点で結びついている。
今回のインタビューでは、そんな原さんがどこで生まれ、何を体験し、何故そのようになったのか、という素朴な疑問を、我々の問題意識と結びつけながら質問した。また、戦後の20世紀という濃密な時代を、建築家・思想家として、どのように捉え、駆け抜けたのかについても語ってくれた。
屈指の名インタビューとなったことを確信している。
戦災と飢餓を生き抜き、世界中を旅してきた巨人が、いま自身の人生について口を開いてくれた。
我々もまた、神に代わる、武力に代わる、新たなフィクショナリティーを求めて旅に出よう。
伊藤 大学で学んでいたところから、次第に建築家としての活動を始めることになると思うのですが、原先生が建築を志すと決めたとき、最初の頃に考えられていた命題は何だったんですか?
原 そうだよね。それの中の一番のポイントは、神がいないとすれば、どういう建築を発想したらいいのか?っていうことだよ。そのときに、「初めに閉じた空間があった。それに穿孔することによって建築が生き延びることができる」っていう、そういうストーリーを考えた。それが後に、どういう意味を持つのか、それはよく分かんないけれども。
伊藤 はい。

30代を迎えたばかりの頃の原さん(1966)
原 でも、僕が建築をやるっていうことを決めるのは、今思えば、うまく決めたんですよね。というのも、丹下さん(※19:丹下健三)のところにいたにもかかわらず都市をやるっていうのは、どうもやばいんじゃないかと思ったんですね。
伊藤 都市工に行かなかった。
原 都市工に行かなかったわけです。それは建築にとどまらないといけないんじゃないかって。とはいえ、都市工に行けば、また都市工の人生って待っていると思うけどね。だけども、建築という限られたところで検討しようと、そういう状況に対しての全体的な判断をした。とくに、その1942年から1950年代にかけて、サルトル(※15)とカミュ(※16)が喧嘩するんだけど、それは一言で言うと、全体性をめぐる闘いなんだ。つまり、カミュはものすごい人なんですよ。ものすごい人だっていうのは単純に言えばね、「マルクス(※20)は間違っている」ってちゃんと言った人です。共産主義というか、マルクスの考え方について、それは駄目なんだと。そこで「神と人間は違う」っていうことを、ちゃんと言ったんですね。
伊藤 マルクスに「違うぞ」と、ちゃんと言った人がいたと。
原 いた。とはいえ、カミュがそういうようなことを言ったっていうことは、まだ知らないわけ、僕は。
伊藤 当時の原先生は知らない?
原 知らないわけですよ。それは1960年代において、そういう話がまたされることになるから、知っている。
伊藤 でも、当時の思想潮流としても、マルクスの影響は免れえないですよね。
原 僕もそう思っていたし、だからそれは、神じゃないけれども、マルクスより正しいことをやってくれるんじゃないかなということなんです。そういう期待があって。なにしろ基本的に、僕は、マルキシズムは駄目だと思っていたからね。それの理由は簡単なことで、要するに、マルクス理論が新しい世界を迎えると言われているが、その迎えるための道具を何一つ持ってないわけ。全部、世界のためにと言っても、資本主義のためにつくっている道具があるだけで、「これぞ共産主義のための道具だ」ってのは何もないんだ。何もないのにそんな成功するはずもないし、それは無理だろうという。どうも何か…、スターリニズムの酷さっていうのはとんでもない。今まさにウクライナも巻き込まれているような、そういうひどい世界。
伊藤 なるほど。では、話が前後してしまうのですが、そもそも原先生が東大に入って、建築学部に進学されたきっかけは何だったんですか。
原 それはみんなが「おまえは建築学科だ」って言うからね。僕と話しているうちに、いろんな人が。寮生だからね。
伊藤 それはどうしてだったんでしょうか?
原 たぶん芸術の話をするからじゃないかな。それで、ちょっと絵を描かせてみるとかさ。それで「おまえは建築学科だ」ということを言っていたね、みんな。
伊藤 その当時、仲良かった同級生が?
原 同級生とか、先輩とかね。芸術の世界っていうか…寮なんかでも芸術っていうのを語ったりするのは、すごい珍しいことなんじゃないかな。きっとね。みんな、話してないわけですよ。政治とか哲学とか法律とか経済とか、みんないろんな話をして、社会とかのことばかりで、芸術の話をする人なんて、ほとんどいなかったんじゃないかな…と思うんだね。
伊藤 それをやる人は確かに東大ではね…。
原 でも、いたんだよ。大江さん(※21:大江健三郎)がいたんだ。キャンパスには大江さんがいたんだから。それで、しばらく後になって、「大江さん、あの時こんなこと言っていなかった?」って聞くんだけどさ、「いや、僕はそんなこと言わないよ」とか何回も言ってさ(笑)。つまり、その時はお互いに知らないんだけど、あとになってみれば、「たしかに、あれは大江さんじゃなかったのか?」「飯屋で、あの喋り方は、どうも大江さんじゃないか?」なんて思い出すことがあって、それを言うと、「そんなことは言った覚えがない」とか、そういうふうに(笑)。だけど、そういうふうだけど、文学部とかだったら、なにかそういうことを話しておったのかもしれないけどね。そういう話があったのかもしれないだろうと思うよ。

岩波研究会にて、大江さん達とバリ島へ行ったときの写真(1979)
右から3番目が原広司さん。1970年代の半ばから知己を得て、親交を深め合った二人。学生時代には互いを知らなかったが、原さんはキャンパス内に大江さんの気配を感じていた様子。
伊藤 たしかに、磯崎さん(※22;磯崎新)も駒場の頃から、そういう文学や芸術の方面の人達と親しくされていたと聞いた覚えがあります。
原 うん。何かそういうことでもない限り、芸術の話をするようなことがないんだね。だから、芸術の話をするっていうと、みんなが理解するのは、なんかどうも工学部だったら建築学科がそういうところなんだって、そう思ったからじゃないか。それで、丹下さんがいるからってわけで行ってみて。それで、丹下研究室で、丹下さんのところに通って。それこそ、今は壊れてなくなっちゃったけど、当時丹下邸にずっと僕はアルバイトに行って、丹下さんの計算機を回しているんだよね。丹下さんの論文の手伝いとかで。そういうことはやっていたんだけども。ただ、それが全体の中で、どう影響したかというと…どうだろうな。
伊藤 そこから、建築家になろうと思うまでには、きっかけがあったんですか?
原 うん。だけどね、建築家になるなんていうのはね、それはやっぱり丹下先生を見ていたからよ。素直に言って。それで寮の連中とか周りの連中もそういうことを言うのは、恐らく、なんか丹下さんも華々しかったからね。そういうようなところがあった。
伊藤 なるほど。
原 (…しばらく思案して)そういえば、丹下さんの奥さんとは、僕、しょっちゅう話をしていたんだよ。丹下先生とはあまりいろいろ話せなかったけども、丹下さんの奥さんとは、いろんなことをよく話した。丹下邸へ行っても話をする相手は奥さんしかいないから。丹下さん、黙っているしね。
伊藤 そうなんですね。
原 うん。それで、丹下さんも建築家はどうのと、いろいろ言ってくれるんだけど、奥さんも「あなたは丹下さんのような建築家になる」っていうふうに、もう決め付けているっていうか、そういう感じ。自分もそう思っていた。だから、モデルが近いところにあるっていうことはすごく重要でさ。それの近くにいるのといないとでは全然違う。当時は、建築家ってどうやったらなれるかって、そんなの全然分からないんだよね(笑)。
伊藤 たしかに、当時はそうですよね。
原 うん。だけど、奥さんによく「僕不安で、何もやっていないし、建築もまだやろうとも何とも思っていないんですけど、大丈夫ですかね?」って言ったら、「大丈夫。あなた、できるわよ。」なんて言われてさ(笑)。そんなような感じで。あの場所に通っているときに、そういう雰囲気があったんだね。

原さんと、奥様の若菜さん(1970)
1961年に立ち上げたRAS設計同人が10年目を迎えた頃の写真。
原 それで、驚いたんだけど――この話っていうのは、僕は何回もその当時の話をするときに世間にもしたことあるんだけど――それは本当に面白い話でね、その奥さんはツチヤさんっていうんだよね。ツチヤさんが丹下さんに造るチャンスを与えてくれる。きっと仕事から、お金から、敷地から、いろいろと用立ててくれていたんだと思う。それで、その家っていうのは、素晴らしい、田園調布の一番いいところだ。すごいところだった。それで、隣の家っていうのが、柳田國男(※23)のうちなんだよね。
伊藤 おお。
原 道を隔てて、こう、向かい合っている。それで、のちに僕が柳田美術館の設計をすることになったとき、僕の先輩で、当時市長だったマツダさんっていう人がいて、その人と一緒に話していたら、「どうも柳田國男の書斎が空いているらしい。世田谷区が材料をどっかにまとめたんだけど、それを捨てていない」っていうのを聞いて。それで、柳田國男の弟子だったっていう人が飯田にいたんだけど、そのお父さんが明治大学の教授をされてた人で、その人から口を利いてもらって、マツダさんと僕とで貰いに行くんですよ。
伊藤 その、解体されている書斎の部材を?
原 そう。僕が設計する美術館の中に移築をさせてくれないかって。それを頼みに行ったときに、そこにいた奥さんが、「私のうちに面してたところが丹下さんの家だったんだけど、ツチヤさんが怒って壊しちゃったんだ。」っていう(笑)。
伊藤 それは、当時を知る柳田家の方ですよね。びっくりですね(笑)。
原 それはもう驚いた(笑)。それで、「本当ですか?僕はそこへ通っていたんですよ!」って言ってさ、とにかくそういうことがあって驚いて、「いやあ、そうでしたか」とかって話をしていたら、「もういいから、持っていきなさいよ」って言うわけ。「それでは、ありがたくもらってきます」っていうようなやり取りがあってさ。いろいろ聞いてみると、そのとき彼らが言うには、要は、役所に頭にきていると。自分たちもせっかく茶室だの何だの残せって言われたから残したのに、持っていっても何もしてくれない、再現してくれないって。そこで市長も怒られちゃって(笑)。だから、そういうわけで、「約束しますので」って言って、とりあえずもらってきた。それで今も建っているわけ。
伊藤 なるほど。本当に、数奇な繋がりですね。
原 あと、去年壊しちゃったんだけども、「伊藤邸」という、有孔体の初めての住宅があったんです。あれについては、僕は出来がいいと思っていたんだけど、どうにも壊さざるを得ない理由があったので、壊されちゃったんだ。だけど、その壊したときのレリーフをもってきて、今、もう一度造ろうとしているんだよ。
伊藤 それは、何をつくるんですか?
原 それはね、かつて有孔体の世界っていうのを造ったんだけど、今はもう廃棄されて、写真が残っているだけ。それに対して、その有孔体の世界に代わるような谷間――谷間って屋根をかけるとトンネルができて、それ直ちに有孔体になるんですよね。それが、京都駅とかの空間の原則になっているわけだけど――そういうようなことを今、造ろうとしている。今、それのエスキス段階っていうかさ、つくる段階で。大江さんの文学の記憶の舞台である大瀬の谷と、飯田の谷。それらを高さの比率を変えて造っていますけれども、それらの谷を合わせて、有孔体の世界に代わるようなものを造って、柳田國男の離れの中に入れようとしているからさ。
伊藤 おお、そうなんですね。
原 でも、自分でつくった美術館の中へ造り入れるのは僭越だと思っている。なぜかって、そこに入りたい人はいっぱいいるわけよ。寄付でも何でもしてさ。だから、自分の設計したそこを使っちゃあ…。立場から言うと、「使わしてくれ」って言えば、そりゃ使わせてくれると思うんだ。でも、そうじゃなしに、それは柳田邸に入れたほうが、いろんな意味で、ストーリーが分かりやすいんじゃないかと思うんだよね。
伊藤 数奇な縁でもありつつ、必然性もある。
原 そう。つまり、たとえば、集落の話にしても、柳田國男がいなかったらば、僕は集落の調査を始めなかったんじゃないかとか、いろんなことがあるわけですよ。あと、柳田國男っていうのはなんか飯田に関係あるらしいんだよね。どういう関係なのか、はっきりはしてないんだけどね。なくてもあってもいいと思うんですけどね。
伊藤 どこかしら少し、原先生とも重なるところがあるんですね。
原 あるんですよね。相手は民俗学ですからね。民俗学っていうものを興した人だ。だから、僕が集落学っていうものを自分が興したなんて言ったりするのは、あまりどうでもいいとは思うけど、そういうことを動かして始めさせたっていうことについては、確かに僕はやり始めたわけで。
伊藤 そうですよね。
原 それで、今回もいろいろ何かあったけども。(…しばらく思案して)そういえば、集落といえば非常に驚いたことがあったんですよ。それはメソポタミアの集落なんだけどね、ものすごい良い集落があって。
伊藤 はい。

アブ・ソーバ―トの集落(Abu-Soubat, Iraq)©東京大学生産技術研究所 原広司研究室
原 その集落がディスクリート(=英:discrete)の感じを持っていたんですね。離散的集落の典型としてあった集落なんですよ。それについて、この間、ずっと調べたんですよ。かつて自分たちが調べた集落がどうなったのか気になったから、ちょっと見てみて、今と昔を合わせてみようと。
伊藤 ああ、なるほど。
原 前から気にしていたんです。何故かっていうと、なくなっちゃったんじゃないかと思ったんですよ。だから、そんなわけで少し調べてみるつもりが、驚いたことに、どうもなくなっちゃったらしいと。それで、当時の調査にいた人全員に連絡して、お互いにちょっと調べていって、それで今どういうふうになったのかって確認したところ、要するに、単純な話、彼らはかなり変化したということが分かった。それで、いろんな世界の200ぐらいの集落を比較してみようと。

アブ・ソーバートの集落のスケッチ(部分抜粋)©東京大学生産技術研究所 原広司研究室
原 だけど、何しろ僕は、なんていうか、比較している目が、つまり精度が足りないんですよ。僕らが記録したっていうのは、僕がほとんどプランを取って、それでみんなが描いた。それが合っているか、合ってないかどうか、分かんないけども。恐らく大体、合っていると思っているけどね。それを今は人工衛星があるからって、衛星写真で見てみると、「あそこにない。ない、ない。」って、これは大変だって言って、山本理顕(※24)だとか、藤井明(※25)だとか、伊藤恭行(※26)だとかにも電話してね、そういうのをみんな集めて、どうもなくなっているみたいだって。でも、実はそうじゃなしに、もう世界遺産にもなっていますよとかって話も出てきて。確認してみると、実際には、博物館みたいな形で残ったっていうことなんだけどね。
伊藤 ははあ。
原 非常に心外なわけですよ。僕らとしてはね。その本当の形が残っていなくて、博物館化されたっていうのは面白くないわけ。だけど、変わってしまった。それで世界の集落を、だーっとずっと見てみると、みんな変化したって言うんだ。だから、この状態をこれからどうするのかと。今まではさ、共時的に、つまり、きちっと切ったある一瞬に同居して、同時存在していたということに意味を持っていたんだけど、どうも通時的な時間に沿った回答をしなくちゃならなくなってきたと。
伊藤 そうですよね。
原 それはどう考えるか、どうすればいいのか、どういう考え方でいけばいいのかっていうことが、僕の考える中では整理ができたんだけれども。そういうこともあるわけですよ。だから、そういう意味では、集落を見たっていうのは非常に運が良かった。実践的な集落が輝いていたときっていうのは、コルビュジエ(※27)が「本当に伽藍がすごかったとき…」って言ったときのようなもの。それを僕らは見たんだけど、それは非常に運が良かったし、必要だったと思うんだよね。それで、正確に指標が残ったっていうのは非常にいいと思っている。けれども、それじゃあ、これからどうするのっていう問題に関しては、「僕は関係ないけど、みんな、せいぜい頑張ってください」っていう、そういうような話なんだけどさ(笑)。
伊藤 はい(笑)。
原 だけど、そういう意味で、そういうことを語れるようになったっていうのは、柳田國男がいたからなんですよね。人の志っていうかさ、それが伝わったんだろうと。それを表現するために、とにかく僕はそれを完成して、あそこへ収めたいと今思っているわけですよ。
※19 丹下健三:1913-2005, 建築家, 都市計画家, 東京大学名誉教授, 丹下都市建築設計
※20 カール・マルクス:1818-1883, 無国籍者(プロイセン生-イギリス没), 経済学者, 哲学者
※21 大江健三郎:1935-, 文学者, 小説家, 評論家, 随筆家
※22 磯崎新:1931-, 建築家, 同済大学名誉教授, 磯崎新アトリエ
※23 柳田國男:1875-1962, 民俗学者, 農務官僚, 貴族院書記官長, 枢密顧問官
※24 山本理顕:1945-, 元名古屋造形大学学長, 東京藝術大学客員教授, 山本理顕設計工場
※25 藤井明:1948-, 建築理論家, 建築批評家, 東京大学名誉教授
※26 伊藤恭行:1959-, 建築家, 名古屋市立大学教授, シーラカンス・アンド・アソシエイツ共同主宰
※27 ル・コルビジェ:本名はシャルル=エドゥアール・ジャンヌレ・グリ, 1887-1965, スイス, 建築家, 近代建築の四大巨匠の一人
<次編:vol.3『 二千年を超える形而上学を問え 』>